文政11(1828)年 求馬 46歳

 時はまた少しさかのぼる。

 求馬が謙吉を養子に取って五年後、咸宜園は暗礁に乗りあげていた。

 晩秋、曇天の下、求馬は足取り重く花月橋を渡る。代官所へ呼び出されるのは今月もう四度目だ。

「たびたびすまんな、塾主」

 と、塩谷代官が言った。

 この人物と初めて相対したとき、求馬は『水滸伝』が頭に浮かんだ。宋の裏組織・青蓮寺を牛耳る袁明えんめいは、こんな顔をしていたのではないだろうか。眼光鋭く、猜疑心と自信に満ち満ちている。

「先月の月旦げったん(成績表)を見せてもらおうか」

「月旦なら、すでにお見せしたはずですが」

「裏の方だ」

「裏? 何のことでしょうか」

 と平静を装いながら、求馬は内心冷や汗をかいていた。

 日田の外からも塾生が集まってくるという咸宜園を大いに気に入った塩谷代官は、求馬を用人格(家臣)に取り立て、規則の改訂や都講(塾生の長)の人選など、塾の運営に対してさまざまな指導を行った。

 要するに、咸宜園を我が物にしようとしているのである。

 塩谷代官の介入を、求馬は日記の中で密かに「官府の難」と呼んだ。月旦表を見せよと言ってくることもその一つであった。代官が目をかけている役人の子には、高い評価を与えるよう要求されていた。

「裏月旦なるものがあると、小耳に挟んだのだがな。塾主が存ぜぬと言うのなら、まぁいい」

 正しい評定は咸宜園の要。代官に見せる表向きの月旦表とは別に、本当の月旦表を、事実、求馬は作っていた。

 しかし、あれは本当に信頼できる数名にしか見せていないはず。信じたくないことだが、あの中に代官の息のかかった者がいたのだろう。

「塾主よ、俺は咸宜園のためを思って言っているのだ。妙な真似はしない方がいい」

「……」

「わかったらさがれ」

「は。失礼致します」


 塩谷代官は間違いなく咸宜園を欲しがっている。

 けれど、その影には久兵衛の意思も働いているのではないかと、求馬は見ている。

 久兵衛と塩谷代官は不思議と仲がいい。そして、久兵衛は今でも――昔からずっと――求馬を嫌っている。

 咸宜園に痛手を与えるために、おそらく、久兵衛は代官に入れ知恵をしている。

 酒が入った勢いで、求馬はつい、金吾にそんな話をした。

「考えすぎだろう」

 と、金吾は言った。

 そう、考えすぎだろうと誰でも思う。だからこそやりかねない。やはり兄弟だからなのだろうか、久兵衛の考え方は、何となく想像がつく。

「とにかく、そう辛気臭い顔をするな。かわいい息子の門出じゃないか。明るく送り出してやれ」

「ああ……そうだな」

 謙吉が豊前の浮殿に私塾を開く。その祝宴であった。

 塾生となって十年。二十歳の若さながら、謙吉の非凡さは誰もが認めるところであった。謙吉に何か問えば必ず鋭い答えが返ってくるので、「活字典」というあだ名がついた。

 求馬の養子ということもあり、謙吉が私塾を開くのは、周囲から見ればまったく不自然なことではない。けれど、求馬としては、あくまでこの咸宜園を継いでほしかった。独立するとは思ってもみなかった。

「おい、求馬。お前まさか、謙吉が独り立ちするのにも、久兵衛が裏で糸を引いていると思っているんじゃないだろうな」

「……正直に言って、そのまさかだ」

「……」

「資金は久兵衛が出した」

 とは言え、追及などできない。

 久兵衛も謙吉を欲しがっていることはわかっていた。だから、取られないように、先に養子に取った。そのことをきっと、久兵衛は恨んでいる。

「求馬、仮に何もかも、お前の想像している通りだとして――」

 と言いながら、金吾はうまそうに酒を一口呑んだ。

「――それが何だ? 二、三人、お前を嫌う人間がいたとして、それがどうした? いまや咸宜園には百人以上も塾生がいる。みな、お前に導いてほしくてここにいるんだ」

「……」

「どうにもならないことは気にかけるな。腐るな。尊敬を集めろ。それがお前の長生きの秘訣だ」

「……医者のくせに、まじないめいたことを言うじゃないか」

「まじないじゃない。何度でも言うが、病は気からだ」

 お前こそ長生きしてくれ――と、求馬が心から感謝するこの男は、いまだに独身を通している。

 左胸がちくりと痛んだ。


 金吾の言う通り、無駄に気を病むことはやめようと思った矢先、たたみかけるように、厄介ごとが襲ってきた。

 その男が現れたのは、いつものように西の講堂に集まり、全員で朝食をとっているときであった。

 なじみの茶屋に顔を出すような気安さで、

「やぁ皆さん、仲のよろしいことで」

 と、男は言った。

 塾生たちがざわついた。

 厚手の股引に細い帯という、変わった服装であった。

「洋装をご覧になるのは初めてで?」

「君、突然押しかけてきて、なんだ」

 と、塾生の安民やすたみが言った。

「いやいや、失敬。僕は高野長英たかのちょうえいという医者です。先日まで長崎にいて、シーボルト先生という人のもとで勉強していました。これから江戸へ向かうところなのですが、求馬先生の噂を耳にして、一目お会いしてみたいと思ったのです。どうぞお食事を続けてください。僕はここで待たせてもらいます」

 求馬は箸を置いて、

「求馬は私です」

 と言った。

「ようこそおいでくださいました、高野さん。食事はちょうど終えたところです。よろしければ私の部屋でお話をしましょう」

「これは恐れ入ります。でもせっかくですから、ここで話しませんか? 皆さんの勉強にもなると思うのですが」

 求馬は少し考えて、

「いいでしょう」

 と言った。

 安民が求馬の食器をさげ、長英は嬉しそうにそばへ寄ってきた。

「将棋盤はありますか? 一局いかがです?」

「あいにくですが、ここでは碁や将棋を禁じているのです」

「そうなのですか、もったいない。あれはなかなか優れた遊びですよ。兵学の基本です。兵隊というものはいざ武器を使う時間よりも、移動している時間の方がはるかに長い。その現実をよく表しています」

 突然何を言い出すのだ、と塾生たちも思っているだろう。

 けれど、求馬は黙って聞いていた。

「現実と合っていない部分もあります。今は馬があっても桂馬のような働きはなかなかできません。地面にいる鉄砲隊の方が強いですからね。でもね、先生。僕は長崎で『三兵答古知幾さんぺいたくちいき』という本を訳して知ったんですが、西洋では兵隊を歩兵、砲兵、そして騎兵の三種に分けて考えているそうなのです。騎兵もちゃんと一種に数えられているのですよ」

 長篠の戦いで武田の騎馬隊が織田の鉄砲隊に破られたという話は広く知られているところである。その絵面自体は後年の創作とも言われているが、実際、鉄砲の登場以降、騎兵はあまり重視されていない。

 長英は腰の袋(ポケット)から一枚の桂馬を取り出し、

「仮にいま、異国が攻めてきたとして――」

 と言いながら、その駒をぱちりと床に置いた。

「――当面は水際の攻防でしょうから、やはり騎兵の出番はないでしょう。しかし、騎兵の持つ機動・索敵という能力は、どんな戦でも意識されるべきです。船同士の戦なら、頑丈で砲門の多い船ばかりでなく、足の速い船も必要です。それに、いつか大陸で戦うときが来たら、必ずや騎兵隊が大きな役割を果たすでしょう」

 長英の予言に反して、のちの明治政府は騎兵を軽んじ、その導入に消極的であった。その結果、日露戦争においてはミシチェンコ将軍率いるコサック騎兵に大いに苦しめられることとなる。

「つまり、何がおっしゃりたいので……」

「日本は騎兵の研究を始めるべきです。さぁ、先生はどうお考えですか」

「……騎兵について?」

「いえ、国防について。異国船が日本の周りをうろうろしていることはご存じでしょう。ご公儀は打払令を出しましたが、命じれば打ち払えるというものでもありません。迅速に備える必要があります。違いますか?」

「あいにくですが、うちは兵学校ではありませんので」

「では、学問とは何ですか? 仮にいま、また長崎にイギリス船が現れて、三隈川をさかのぼってきて大砲をぶっ放しても、先生はのんきに漢文を読んでおられるのですか?」

「そんなことはあり得ない」

 と、安民が口を挟んだ。

「仮にと言いました。だいいち僕は先生と話をしているんです」

 まだ何か言いたげな安民に目配せをし、

「高野さん、あなたのおっしゃることはもっともです」

 と、求馬は言った。

「しかし、果たして戦になどなるでしょうか? こう見えても商家の息子ですから、軍隊を移動させるのにどれほど金がかかるか、おぼろげながら想像はつきます。はるばる海を越えてこの狭い土地を占領しても、あまり儲けになるとは思えません」

「土地よりも、人です。商家のご子息なら、買い手の存在がどれほど重要かもよくご存じでしょう」

 このときすでに、イギリスは清(中国)に対して大量のアヘンを売りつけている。長崎にいた長英はそれをよく知っていた。

 アヘン戦争が起こるのはこの十二年後、清が敗北して香港を失うのはそれから二年後である。

「塾生の皆さんに道徳を説くように、異国の軍隊に向かってお説教をなさいますか?」

 長英の指摘は正しい。が、部屋で話すべきだったと、求馬は後悔していた。

「私が不勉強でした。異国の脅威に対して、何をすべきか、改めて考えてみたいと思います」

「嬉しいです、先生。僕は知恵のある方々に、日本の未来について現実的なことを考えていただきたいのです。どうかよろしくお願いします」

 長英は床に打った桂馬の駒をそのまま残し、去っていった。

 彼に悪気はなかったのだろう。けれど、求馬の威信は明らかに傷つけられた。この二日後、三人の塾生が辞去した。

 さらに、謙吉の塾に移籍していく者もあった。

 官府の難も続いている。

 このままでは完全に潰れかねない――と、求馬は戦慄していた。

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