天保13(1842)年 宗太郎 18歳

「君は表情がないな」

 と、梅田幽斎うめだゆうさい先生は言った。

「ちと笑ってみろ」

「はい」

 と、宗太郎は答えて、笑おうとした。

「おかしくもないのに笑えるか、と思っているだろう」

「いえ、そのようなことは」

 本当に思っていない。

「真意がどうあれ、そう思っているように見えるのだ。それが問題だ」

 宮市にある梅田塾。本格的な医者修行の第一日目であった。

「医者に表情など関係あるか、と思っているだろう」

「いえ、思っていません」

「だから、そう見えるのだ」

 そうなのだろうか。

 しかし、思い返してみると、どうやら先生の言う通りだ。

 母の言いつけを守り、人を不快にさせないように努めてきたが、それでも宗太郎は人によく誤解された。

「もう一度笑ってみろ」

「はい」

 と答えて、今度こそ笑おうとした。

「むしろ怒っているように見えるぞ。どれぞれ……」

 と言って、幽斎先生は両手を伸ばし、

「ふーむ、骨格の問題かもしれんな。解剖してみればわかるだろうか」

 などと言いながら、宗太郎の顔にべたべたと触った。

「ここだ、宗太郎くん」

 と、幽斎先生は両手の親指で宗太郎の口の端を押し上げた。

「ここを口角という。口角をあげれば笑っているように見える。やってみろ」

「はい」

 と答えて、宗太郎は口角をあげようとした。

「……」

「先生、いかがでしょうか」

「……君は医者に向かないかもしれん」

「……」

「だから医者と表情に何の関係があるのか、さっさと説明しろと」

「思っていないのですが、そう見えるのですね」

「そうだ。賢くはあるな。いいか、宗太郎くん。理由は二つある。一つは、医者も客商売だからだ。患者も医者を選ぶ。愛想の悪い者には寄りつかん」

 なるほど、と思いながら、宗太郎はまた口角を上げようとした。

「練習はあとにしたまえ。もう一つの理由は、安心を与えるのも医者の仕事だからだ。〝病は気から〟と言うだろう。医者が笑顔でいれば、患者は安心して、病が治りそうな気がしてくる。だが、医者が仏頂面では?」

「不安になって、気分が落ち込む」

「そういうことだ」

「医者に向かないのなら、私は何を目指せばよいのでしょうか」

「大丈夫だ!」

 と、幽斎先生は突然、とびきりの笑顔で言った。

 なるほど、確かに安心できる。

「私が大丈夫と言う理由は二つある。一つは、〝成せば成る〟からだ。練習すればどうにかなる、かもしれん。もう一つは、ひとまず医者を目指して勉強しておれば、無駄になることはないからだ」

「ひとまず、ですか」

「これからの医学は蘭学だ。必然的に蘭語(オランダ語)を用いる。蘭語が扱えれば、まず食うには困らん」

 長州藩の藩校・明倫館では、長い間、伝統的な朱子学を教えていたが、この頃から蘭学を採用している。

 藩を挙げて西洋の学問に取り組むところが現れた。亀井南冥が蟄居させられてから五十年、ようやく時代は変わろうとしていた。

「わかりました」

「……うむ、不服そうに見えるぞ。実に興味深い。君が早死にしたら解剖させてくれ」

「はい」

「……冗談を聞いたときくらい笑いたまえ」

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