同年 伊兵衛 62歳

 布団からのそりと起き出す。膝が痛まないから、今日は晴れるだろう。

 顔を洗いに出る。外はまだ暗い。俺もすっかりじいさんだ、と伊兵衛は思う。

 かたや、大蔵永常おおくらながつねと名を変えた徳兵衛は、もうすっかり立派な農学者であった。このとき、四二歳。数々の書物を世に送り出していた。

 処女作『農家益』の文章を二人で練ったのは遠い昔だが、まるで昨日のことのように思い出される。

 芝居の形を取った。大坂の乗合船にさまざまな地方の客が居合わせ、たがいにお国自慢をする。筑紫から来た男はろうそく作りについて語る。これに大和から来た男がケチをつけ、論争になるが、最後には乗客一同耳をそばだてて、筑紫の男の話に聞き入る――という寸法である。

 この形式は正解だった。多くの人に読まれ、もっと詳しく教えてほしいと、手紙を寄越してきたり、訪ねてきたりする者もあった。知恵をしぼった甲斐があった。

『農家益』の成功に勢いを得て、ふくれあがった入道雲が大雨をはき出すように、永常はたくわえた知識を次々と書物にしていった。

『老農茶話』では、稲架掛けについてと、シナノキの皮から繊維を取り、布を織る方法を書いた。

『農具便利論』では、永常が各地で見てきた農具の中から特に優れていると思われる農具三七種類を紹介し、挿し絵と、大坂における値段を添えた。さらに「他にも良い農具を知っている人はぜひ知らせてほしい」とも書いた。

『除蝗録』では、水田を襲うウンカを、クジラなどの油で撃退する方法を書いた。

『再種方』では二期作について、『農稼肥培論』では肥料について書いた。

 さらに、読み書きのできない百姓向けに、『文書仮名づかい』という書物も出した。

 ずいぶんたくさん書いてきたが、永常の好奇心と使命感はまだまだ尽きない。もっと高く飛べる男だ。

 間違っても、こんな道なかばで死なせるわけにはいかない。


 麦飯とたくあんと味噌汁。いつもの朝飯をかきこみながら、

「すまん永常、三河田原へは今日発つはずだったが、俺はちと急用ができた。お前一人で先に行ってくれ」

 と、伊兵衛は言った。

 江戸で「尚歯会しょうしかい」という勉強会を開くなど、先進的な考えを持つ渡辺崋山わたなべかざんという人物の目にとまり、永常たちは三河田原藩に招かれ、農業の指南役に就くことになっていた。俸禄は六人扶持、足軽と同等とは言え、百姓の息子が武士と肩を並べるのである。

 伊兵衛は崋山に「明日発つ」と言ってあった。

「それはかまいませんが、急用とは?」

「急用というか、野暮用だ。まぁ、察してくれ」

 と、小指を立てて見せた。

 永常を見送ると、伊兵衛はゆっくりとした動作で、茶をすすった。

 今宵、来るだろう。

 不穏な気配が西から近づいてきているのをいく日か前から感じていた。予感ではない。不思議と確信がある。

 いつかは来るだろうと予想もしていた。そういう意味では、案外遅かった。


 初夏の一日を、伊兵衛はじっくり味わった――と言っても、特別なことをしたわけではない。近所の子どもたちと遊び、そばをたぐり、湯を浴びた。そして、畳の上に寝っ転がり、来客を待った。

 畳。

 い草を編んだ建材。

 誰か知らないが、よくぞ作ってくれた。板の上ではこうもくつろげない。

 人の暮らしはつくづく技術に支えられている。

 各地で眠っていた農業の技術を、永常は広めた。大した男だ。

 あいつのために死ねるのなら悔いはない。


 おもての戸が叩かれた。

 さて。

「大倉永常殿はおられるか」

 と、男の声。

 伊兵衛は戸を開け、

「永常は私だが、何用か」

 と言った。

「……おぬしが?」

 と、男はいぶかしげに言った。頬の刀傷が自慢気であった。

 伊兵衛はさりげなく視線を走らせた。

 六人か。

 裏にも何人かいるだろう。

「永常殿は相当な大男と聞いているが」

「ああ、噂の一人歩きだな。私が大きいのは器だ」

「……我らは薩摩の者だが」

「それは遠路はるばるご苦労であった。して、ご用件は」

「とぼけるな、盗っ人めが」

 と、男が語気を強めた。

 周りの男たちがかすかに緊張する気配を見せた。

「何の話で?」

「おぬしの書いた『甘蔗大成』とやらのせいで、砂糖の価値は急落した」

「急落とは大袈裟であろう。以前より需要が増えたと見て発表した」

「どうやって製法を盗んだ」

「書いた通り、それは言えん」

「言えばまだ楽に死なせてやるが?」

「私を斬るのか?」

「おぬし一人の暴挙のためにどれほど薩摩が痛手を負ったと思っている。ただでさえ薩摩は苦しいのだ。なまじ雄藩なだけに、ご公儀から目をつけられている」

「苦しいのはどこも同じだろう。それぞれに事情があるのだ」

「その言葉が、遺言でいいか?」

 と、男が刀を抜いた。

 周りの男たちもそれにならった。

「砂糖のおかげで多くの百姓が救われた。薩摩には感謝している――と、これを遺言ということにしてくれ」

 三河田原へは、永常宛で、既に文を届けてあった。

 もう一度名を変えろ。今後は日田義太夫ひたぎだゆうとして生きよ。大倉永常はいま、ここで死ぬだろう。

 伊兵衛は、すい、と刀を抜いた。

 そして、静かに息を吐きながら、下腹に力をこめ、正眼にかまえた。

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