文政6(1823)年 久兵衛 34歳

 咸宜園が評判になっていることを、久兵衛はあまり快く思っていなかった。

 あの優しかった姉の訃報を受けて、ただちに奮い立ったのならまだよかった。けれど、それから数日経って金吾さんが訪れるまで、兄は土蔵の二階から降りてこなかった。甘えるにもほどがある。

 兄が塾を始めると言ったとき、周囲の人間はみな、赤ん坊がつかまり立ちをした時のように、もろ手をあげて喜んだ。父は着物を仕立ててやり、母は赤飯を炊いた。久兵衛も笑顔で、

「きっとうまくいきます」

 と言ったが、胸のうちでは少しも笑っていなかった。

 そんな確執も、十年以上時が経てば、普通は風化していくものなのかもしれない。けれど、関係が好転するきっかけが何もなければ、逆に摩擦が大きくなっていくこともある。

 兄は昔のことなど忘れたかのように、塾に没頭している。それを久兵衛はどうしても祝福できない。商売なら信用第一。根っからの商人である久兵衛には、約束をきちんと守る職人や顧客こそが尊敬の対象であり、兄の気まぐれが我慢ならない。

 そして不幸にも、衝突の要因がまた新たに生じたのであった。


 母ユイが、四三歳という高齢で、末弟・謙吉けんきちを産んだ。久兵衛からは十八、求馬からは二六も離れている。ほとんど親子のようなものと言える。

 謙吉が六歳の時にユイが亡くなり、父・三郎右衛門は謙吉を厳しくしつけた。母親不在の淋しさに負けない、強い子に育てようとしたのだろう。

 そんな父のしつけが妙な形で現れたのか、持って生まれた気質か、おそろしく従順な少年となった。

 よく訓練された犬のように、命じられたことは何でもその通りにしてしまうのである。しかも、犬と違って、主人を選ばなかった。

 あるときなど、近所のガキ大将に、

「花月川の水がどこから来ているか確かめてこい」

 と言われて、朝から本当にずんずんと川沿いをさかのぼっていき、もう陽も落ちようという時、帰り支度をしている釣り人に保護された――ということがあった。

 以来、そのガキ大将は謙吉の根性を認め、もうからかうことはしなくなったが、家族の間では、謙吉に妙なことを命じてはいけないという暗黙の約束が交わされた。

 桂林園(当時)に通わせるというのは、確かに妙な命令ではないかもしれない。しかし、兄は間違いなく、謙吉を後継者として意識している。それも、塾生になるよう兄が言ったのは、謙吉十歳、久兵衛の教える算盤がちょうど様になってきたところであった。

 率直に言って、久兵衛も謙吉が欲しかった。塾へ通うことに反対するわけにもいかないが、学問にばかり傾倒しないよう、家業の手伝いをさせた。

 謙吉が十七になった今年、兄が謙吉を養子にしたいと言い出した。やはり大っぴらに反対することはできず、久兵衛はせめて謙吉の意思を問うことにした。

「お前は何がしたいのだ」

「はぁ」

「はぁ、じゃない。何がしたいのかと訊いているんだ」

「そうですね、うーん……」

 と、謙吉は少し考えて、

「……強いて言うなら、人様のお役に立つこと、でしょうか」

 と言った。

 久兵衛はため息が出た。

「少しは自分の意志を持ちなさい、謙吉。お前は他人の言いなりになり過ぎる」

「はぁ」

「素直でえらいとほめられるのは子どもの頃までだ。ずっとそのままでは、いつか悪い人間に騙されるぞ」

「悪い人間、とは?」

 求馬兄さんのことですか、と訊かれている気がして、久兵衛はどきりとした。

「例えばだ、両替のとき、百文あたり四文の切り賃(手数料)をもらうだろう。それを取らないでくれと言われて、お前がその通りにしたら、商売にならない」

「はい」

「自分が損をしないように気を付けなければいけない。しかし、人助けをするなと言っているわけでもない。本当に困っている人間は助けるべきだ」

「わかりました。いま、久兵衛兄さんに言われたので、そのようにします」

「……」

 またため息が出た。

 結局、早い者勝ちだったのだろうか。

「謙吉、お前は、商いと学問、どちらがやりたいのだ」

 肝心なのはそこだ。謙吉がもし学問より商いの方がやりたいとはっきり言うのなら、兄とて無理強いはできまい。

「うーん……」

 と、謙吉は考え込んだ。

「よく聞け。塩谷代官はいま、大きな事業を画策しておられる」

 塩谷大四郎しおのやだいしろうが日田代官に着任したのは、謙吉が求馬の塾生となった文化十三(一八一六)年のことであった。

 親子揃って穏やかな人柄だった羽倉代官に比べ、塩谷代官は着任早々、「挨拶の仕方が悪い」と言って地元の人間とひと悶着起こすなど、くせのある人物だった。しかし、久兵衛は塩谷代官の力強さに惹かれ、信頼していた。

「役人たちだけでは大仕事はできない。我々商人の力が必要になる。要するに、これからは忙しくなる」

 それは謙吉欲しさの詭弁ではない。事実、久兵衛は即戦力の右腕を求めている。

 謙吉はしばらく考えた末、口を開いた。

「今までずっと、人の言う通りにしてきて知ったのは、実際やってみれば何でも結構面白いということです。商いも学問も面白いです。比べることはできません」

「……商いをするなら、これまでのように、手伝いでは済まなくなる」

「そうですね。私の体が二つあればよかったのですが」

「……」

 そうか、と、久兵衛は思った。どうやら諦めるしかないらしい。

 答えが出た以上、いつまでもこだわっていても仕方がない。これも巡り合わせだ――と、久兵衛は自分に言い聞かせた。が、謙吉を連れていくのがあの兄上であるというところは、どうにも得心しがたい部分であった。

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