文化14(1817)年 求馬 36歳
宗太郎が生まれる七年前、求馬は桂林園を伯父・平八の住む秋風庵の近くに移築し、「
塾生が増えたため、桂林園では自分の居室を塾生たちに譲って実家から通っていたが、やはり塾生たちと起居を共にしたいと考え、自分用の住居も改めて造り、これを「
この年、塾生は七十人を超える。求馬の指導は評判を呼び、日田の外からも入塾希望者が訪れるようになっていた。
その多くは医者の子や修行中の僧であったが、武士が門を叩くこともあった。
「拙者は佐伯藩士、
「は。求馬と申します」
本来は担当の塾生が応対するのだが、
「おぬしでは話にならん」
ということで、求馬自ら出てきたのであった。
「意外に若いのだな」
「今年で三六になります」
「拙者の二つ下か。まぁ仲良くしようではないか」
「は」
「して、如何なる指導を行っているのだ」
「入門をご希望で?」
「無論そのつもりだが、まず方策をうかがおう」
こういう輩がたまに来る。はじめの頃は対応に戸惑ったが、もう慣れた。
「漢文の句読・会読(回し読み)・解釈を中心に、算術や詩作も学びます。月に一度、成績によって〝級〟の評定を行います」
これは修猷館の「奪席」を参考にした仕組みであった。
優劣がはっきりすると、意欲がわく。もっと上に行きたいと感じる。自分がそうだったので、塾生たちも同じことを期待した。そして、狙いは的中した。
求馬は、毎日の課業で、塾生一人一人を細かく採点した。その点数が一定以上溜まると翌月に進級となるのである。塾生にやる気を出させる目的だったが、求馬と塾生の絆が深まるという副産物もあった。よく観察しなければ採点などできない。
「無級から始まり、上は九級まで。五級より上は個別に進級試験も行います。これはせせこましい点数稼ぎで級が進んでしまうのを防ぐためです」
「なるほどな。拙者は佐伯の藩校、
「いえ、無級から始めていただきます」
金左衛門の太い眉がぴくりと動いた。
「……何だと?」
「みな無級から始めます。成績さえよければ、飛び級もあります」
求馬はかけた時間にこだわらなかった。出来の良い者は次々と進級させた。これは、ひたすら句読を積むべしとされていた頃、四極先生が歳には不相応の解釈を授けてくれたことに由来する。
反対に、出来の悪い者はどんなに熱心でも進級させない。新入りが先輩を追い抜くことも珍しくなかった。
「四経堂で四年間学んだと申したであろう。その実績を無とするのか?」
「咸宜園では、無級からです」
金左衛門の額に青筋が浮かんだ。
「おぬし、父親は?」
「日田の博多屋五代目、三郎右衛門でございます」
「町人だな」
「は」
「拙者は武士だ」
「は」
「塾主より歳も立場も上の拙者が、無級から始めよと申すか!」
「咸宜園では、年齢も身分もありません」
「は?」
「誰しも平等に無級から始まり、力のある者が進級します」
「な……な……」
と、金左衛門はしばらく口をぱくぱくさせていたが、やがて、
「不愉快だ。帰る!」
と言って、帰っていった。
佐伯藩士の怒れる肩が見えなくなると、陰でこっそり見ていた塾生が吹き出した。
「絵に描いたような武士でしたね」
陰口はよくないと求馬はたしなめたが、正直なところ、自身も笑いをこらえるのに必死だった。
塾の運営は順調だったが、気がかりなこともあった。
求馬が三十歳を迎える前後、人の死が続いた。
まず、羽倉権九郎代官が亡くなった。その息子の左門は身分を振りかざさず桂林園(当時)に自らの足で通い、博多屋としても厚遇され、羽倉親子は非常に親しみやすい存在であった。権九郎の死後まもなくは左門が父の代わりを勤めていたが、のちに越後の代官に任ぜられ、日田を去っていった。
翌年、商家の子で塾生の樋口熊二郎が病死した。在籍の塾生を看取るのはそれが初めてであった。
その翌年、母ユイが亡くなった。原因不明の急死であった。いつも優しく見守ってくれた母の死は求馬をうちのめし、一時はわらじを結ぶ力も入らないほどであった。しかし、この塾を盛り立てていくことが母のためでもあると考え、どうにか立ち直った。
さらにその翌々年、亀井南冥先生の訃報が届いた。同じ年に四極先生も死んだ。四極先生とは、土蔵に引きこもっていた頃に疎遠になっていたが、桂林園ができた時には祝いに訪れ、
「ずいぶん待たせやがって」
と言ってくれた。咸宜園も見せてあげたがったが、それは叶わなかった。
金吾の師匠・倉重湊先生も亡くなったとのことであった。
医者であれ、誰であれ、いつか人は死ぬ。
以前の求馬にとって「死」は自分の終わりでしかなかったが、今は人との別れであった。自分もそう遠くない未来、塾生たちと別れなければならない。
求馬は二九歳の時にナナという女性と結婚したが、七年が経った今でも子宝に恵まれていなかった。
咸宜園の後継者をどうするか――という問題がそろそろ気になり始めていた。
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