天保3(1832)年 宗太郎 8歳
人からは朴念仁と言われる大村益次郎だが、決して冷血漢ではない。
長州藩は吉城郡
その日、父の患者につまらない憎まれ口を叩いたのも、宗太郎としては仕返しのつもりだった。
「もう一度言ってごらんなさい」
と、母・梅は、宗太郎と膝を突き合わせて言った。
ツクツクボウシの鳴く午後であった。
「〝夏が暑いのは当たり前です〟と言いました」
「〝今日は暑いね〟と言われて、そんな風に返されたら、宗太郎、お前ならどんな気持ちになる?」
「別に何とも」
「困った子だねまったく。ちゃんと考えなさい。いやな気持ちになるでしょう」
「なるかもしれません」
「相手の気持ちを考えなさい。〝今日は暑いね〟というのは挨拶なんだから、〝そうですね〟、〝暑いですね〟と答えればいいの」
「では、目の前の相手をいやな気持ちにさせなければ、何を言ってもいいのですか」
「何だって?」
「さっきの研蔵さん、父上のいないところで、〝孝益さんはどこの具合が悪いと言っても葛根湯しか出さない〟と言って笑いものにしていたのです」
悔しさを思い出して、宗太郎は膝の上の拳を握りしめた。
梅は少し考えてから、
「だったらお前、その場で〝葛根湯はいい薬なんだぞ〟と言いなさい。あとになって回りくどい仕返しをするんじゃないの」
と言った。
母の言うことはもっともであった。
宗太郎は素直に、
「はい」
と言った。
驚くべきことに、夏が暑かったのはこの年までで、翌年の夏は、百姓たちが綿入れを着込んで草取りをするほどの極端な冷夏となった。そして、懸念された通り、収穫は激減した。
異常気象は実に五年間も続いた。およそ五十年前に起こった「天明の大飢饉」と比肩する惨事であった。
ロシア人ラクスマンの来訪やイギリス軍艦フェートン号の襲来が外からの力とすれば、「天保の大飢饉」は内からの力である。
徳川幕府はこの飢饉に対して、適切な対応策を取ることができなかった。大坂東町奉行の元与力・大塩平八郎が貧民救済を訴えて武装蜂起するのは天保八年。
内外から加えられたひずみは、のちに大きなひびとなって、徳川幕府を瓦解させるに至る。
とは言え、天保三年の時点では、宗太郎はそんな未来など知る由もなく、ごく当然のこととして、大きくなったら父のあとを継いで医者になるのだと思っていた。
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