数日後 金吾 19歳

 金吾は怒りに燃えていた。それはめらめらと踊る赤い炎ではなく、太陽のような、白い灼熱の塊であった。

 足を踏み鳴らして土蔵の階段をあがり、湿気て潰れた布団を引きはがした。

「起きろ」

「……金吾か。なんだ、いきなり」

 と、寅之助が言った。

 こけた頬、目やにだらけの目。

 額のほくろが消えていることに、こいつは気づいているのだろうか? 少なくともその重大さはわかっていない。だからこんなところで寝ている。

「起きて掃除をしろ」

「ちょっと待ってくれ。俺は、あまり具合が……」

「もう悪くないはずだ」

「……本当なんだ」

「いつまでも引きこもっているから気持ちにかびが生えたんだ。もう十分休んだだろう。立て、寅之助」

「……言わなかったか。名前を変えたんだ、求馬と」

「馬鹿馬鹿しい。新しい名など、今のお前には似合わない」

「……」

 座り込んだまま動こうとしない寅之助を放っておき、窓を開いて、その淵に布団をかけた。手のひらで力任せに叩くと、ぞっとするほど大量のほこりが舞った。

 寅之助が弱々しい声で、

「手紙は読んでくれたのか」

 と言った。

 金吾は勝手に周辺を片づけながら、

「何のことだ?」

 と言った。

「届いていないのか?」

「いや、思い出した。こんな恥知らずな男がいるのかと驚いた」

「……」

「安利の死を無駄にすることは、俺が絶対に許さない」

「聞いてくれ。俺だって無駄にしたくはないんだ。だから手紙で助言を……」

「お前は助言なんぞ求めていない。つらつらと弱音を並べ立てて、同情を誘っているだけだ」

「……確かにそういうところもあるかもしれない。けど、本当に、何をしたらいいかわからなくて困っている」

「答えならとっくに出ているだろう」

「答え?」

「お前には学問しかない」

「だから、その学問で身を立てるには……」

「生徒は俺が呼んでおいた。十七歳と十二歳、今はたった二人だが、すぐに増える。場所は長福寺の学寮を借りられることになった」

「おい、何だそれは。何の話だ?」

「私塾を開け。お前の生きる道はそれしかない」

「……待て。俺の仕事を、お前が勝手に決めるな。だいいち、水岸寺から頼まれた時もうまくいなかったんだ」

「しょっちゅう休めばうまくいかないのは当たり前だ。もう休むな。多少気分が優れなくても無理をしろ。自分に鞭を打て。生徒が数人じゃ生計が立たないとお前は言ったが、家の厄介になっているよりはずっとましだろう。それに、良い教え方をしていれば必ず生徒は増える。信じろ。絶対に増える。幸いお前には福岡の修猷館で学んできたという実績もある」

「……」

「思い出せ、学ぶことの豊かさを。そして後世に伝えろ。お前にならできる。誰よりもその力がある。十九までという焦りもあったんだろうが、お前ほどいきいきと学問をする奴を俺は見たことがない」

「……金吾」

「立ちあがってくれ。頼む。安利のために。俺のために」

 寅之助はうつむいたまま、片膝を立て、その膝を拳で強く叩いた。そして、顔を上げた時、目には光が戻っていた。

「その意気だ、求馬」

「すまない、金吾、ありがとう」

「礼なら自分の胸に言え。そこにいるんだろう」


 懐かしき長福寺で始まった講義は、のちに大坂屋林左衛門という男の持ち家に移り、「成章舎せいしょうしゃ」と名づけられた。このとき塾生は六名。

 さらに、求馬の実家を経由して、二年後には「桂林園けいりんえん」という塾を新築した。このとき塾生は二十余名。伊予屋義七という男が建築資金の半分を出資し、作業は塾生たちの手で行われた。梅雨晴れの空に槌音と笑い声が響いた。

 桂林園は二階建て。一階は求馬の居室と講義室、二階は塾生たちの居室とされた。

 この頃、求馬は羽倉代官に依頼され、その息子の左門にも講義を行っている。

 桂林園が完成した年の秋、求馬は流行の重い風邪にかかり、激しい頭痛と、背中に冷水を流し込まれたような悪寒に苦しんだ。この病によって塾は一時閉鎖に追い込まれたが、もう求馬の心が折れることはなかった。金吾の治療と塾生たちの治癒祈願を受けて、無事に再開した。


 塾生が三十名を超えた頃、三隈川の流れつく先、長崎では一触即発の事態となっていた。

 イギリス軍艦・フェートン号が港内に侵入、敵対するオランダの商館員を人質に取り、食糧と薪水を要求したのである。

 この海賊行為に対し長崎奉行は、まず要求通りに物資を渡して人質を保護したのち、一戦交える方針を立てた。

 が、武装も兵力も著しく不足していたため、攻撃は中止となり、物資だけをむざむざ差し出した。

 たった一隻の軍艦に、手も足も出なかった。長崎奉行は恥じ入って自刃した。

 沿岸警備の甘さを痛感した幕府は、異国船打払令を発令。

 一方、長崎の防備を任されていた佐賀藩は、この日の屈辱を忘れず、のちに研究機関「精錬方」を創設。ペリー来航の直前にアームストロング砲を完成させるが、その砲口は異国船ではなく、彰義隊に向けられることとなる。

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