同年 求馬(寅之助) 18歳

 数え年で十八となった。

「十九まで」というのは、厳密にはいつまでを指すのか。来年の正月か、生まれた四月十一日か、年の終わりか。

 早ければ早いほどいい。仮にいま、体のだるさや目のかすみがすべて消えても、どうせ一年そこらでは何もできない。このままだらだらと死を待つだけだ。布団のかび臭さも感じなくなった。

 あの夜、舟上で倒れてから、一度も木刀を振っていない。腕は麻がらのように細くなっている。

 頭の中身もやせ衰えている気がする。何も考えずに漫然と過ごすことが、苦痛ではなくなってきた。

 おもてから、

「行ってまいります」

 と、久兵衛の元気な声がする。

 久兵衛は顔を合わせても俺の目を見ようとしない。きっと軽蔑されているのだろう。


 これでも、何度かは、本気で立ちあがろうとした。

 まず、名を変えた。求馬もとめ

 修猷館で玄簡と名乗ったのは入塾の手続きのためだったけれど、実際、生まれ変わったような気分にしてくれた。それを再現しようとしたのである。

 居ずまいを正し、厳かな気持ちで墨をすり、半紙に大きく「求馬」と書いた。その時は、気合いがみなぎった。けれど、三日後には、慢性的な倦怠感に押し流された。

 それから、視力が目減りしないよう慎重に読んだ『陰隲録いんしつろく』に、感化された。

 ――明の袁了凡えんりょうぼんは、科挙(官吏登用試験)合格を目指して学んでいるとき、一人の老人と出会った。老人は袁了凡に、

「県での試験は十四番目、府の試験では七一番目、省の試験では九番目の成績で合格するだろう」

 と予言した。さらに、

「廩生から貢生を経て、四川の県長にまで出世するが、子どもは授からない。そして五三歳で死ぬだろう」

 とも言った。

 果たして科挙は老人の言った通りの成績で合格した。貢生になる頃、袁了凡は完全に宿命論者となっていた。

 ところが、雲谷禅師うんこくぜんじという人に出会って、考えが変わった。

「徳を積み、善を極めた人間に宿命の束縛は及ばない」

 という教えにいたく感激した袁了凡は、特別な日記をつけ始めた。一日に行った〝善〟の数を数え、〝悪〟の数を引くのである。

 三千の善が溜まった翌年、老人の予言に反して、子どもを授かった。その後も善を数え続け、袁了凡は八三歳まで生きた――

 過去にも自らの力で宿命に打ち勝った人がいたのだ。希望を見出した求馬は、袁了凡を真似て、善を数え始めた。

 が、折悪く、流行の風疹にかかった。熱にうなされ、首の後ろが腫れ、小便の出が悪くなった。熱と腫れが引いたあとも小便の出は悪いままだった。不快感につきまとわれて、いつしか善を数えるのをやめた。

 もう一つ、機会はあった。水岸寺という寺では長福寺と同じように子どもたちに学問を授けていたのだが、講師を務めていた僧が京へ行くことになり、その代役を頼まれた。

 今度こそ、と、引き受けた。

 しかし――案の定、と言うべきか――熱と頭痛にたびたび襲われて、休みがちになり、まもなく辞めてしまった。


 亀井昭陽の嫉妬がいかに激しかったとは言え、いつまでも残るものではない。

 安利の祈りも届いている。

 にもかかわらず、求馬の体がたえまなく病に蝕まれている原因は、二つある。

 一つは、確かに期限が近づいているということ。

 そしてもう一つは、自分自身への呪いである。

 奮い立とうしても、失敗した。気持ちに体がついていけず、折れた。その経験が積み重なり、どうあがいても無駄だという気持ちがどんどん強くなっていった。

 もうどうにでもなれ。

 俺は袁了凡じゃない。負けを認める。宿命が絶対ではないとしても、俺のような病弱な凡夫には覆せなかった。それだけのことだ。

 もう余計なことはすまい。死ぬはずの人間は死ねばいい。


 安利の訃報が届いたのは、夏、鳴りやまぬ蝉時雨に辟易しながら、伸びた爪をぼんやりと眺めている時だった。

 それまでに届いていた安利からの手紙によると、風早局は安利を実の妹のようにかわいがり、「秋子ときこ」という名を授けてくださったという。

 その風早局が熱病にかかって息を引きとると、秋子もあとを追うように、同じ病で亡くなったとのことであった。

 秋子が死の床で書いた手紙の文字を、求馬は落ちくぼんだ目で追った。

「――先日、仏様が夢枕に立たれて、

〝本当によいのか〟

 とおっしゃいました。

 私は、

〝はい〟

 と答えました。

 兄上が福岡で倒れられてから、私はずっと、自分を兄の身代わりにしてくださいとお祈りしていたのです。その願いがついに叶うようです。

 このことをお伝えするのは、恩を着せるためではありません。兄上のこれからの人生に、私の魂も連れていっていただくためです。

 兄上は十九を超えて生きます。目も完全に見えなくなってしまうとことはありません。そして、世の中のためにきっと大きなお仕事をなさいます。

 私がついております。どうかご自分のお力を信じてください――」

 ぽたぽたと、涙が落ちた。

 来る日も来る日も寺へ通う安利の後ろ姿が思い出された。

 まさか、いや、そのまさかだ。

 ずっと俺のために祈っていたのか。

 かたく握った拳を胸に当て、今度こそ、今度こそは本当に立ち上がらなければと、決意した。


 けれど、立ち上がって、何をする?


 三年以上に及ぶ不毛な暮らしは、求馬の心身を絶望的に衰えさせていた。

 秋子の文字通りの献身は、確かに求馬の命をこの世に繋ぎとめた。しかし、心の健康を回復させるには至らなかった。

 求馬は、すがるような気持ちで、金吾に手紙を書いた。金吾はとうに日田に帰ってきて、立派に医者をやっているが、会って話す勇気がわかなかった。

「――俺はどうすればいいだろう。

 今さら亀井先生のところへは行けないし、四極先生にも見限られてしまった。学者として身を立てる道は完全に閉ざされた。

 一から医学を学んで、医者を目指そうかとも思った。けれど、この病身ではどうせ遊学は叶わないし、医者の不養生と笑われる。

 眼科医への道は一瞬だけ開きかけた。修猷館の先輩であった鯵坂右京あじさかうきょうという人がたまたま日田を訪れて、診察をしてくれた。弟子にしてほしいと頼んだら、一度は了承してくれたのに、書物を一冊貸してくれたきり、どこかへ行ってしまった。やはり眼科医は一子相伝ということなのだろうか。それならそうと、はじめから断ってほしかった。

 学者も医者もだめとなると、何かの職人か、百姓か。しかし何にしても俺には下積みがない。体も弱い。

 家業はやはり弟が継ぐようだ。早くも六代目として張り切っている。博多屋に俺の居場所はない。昔のように土蔵の二階でなすすべなく過ごしている。

 せめて水岸寺の講師を続けていればよかったのかもしれない。が、数人の子どもに教える程度では、どのみち生計は立てられない。

 進退窮まった。

 ここだけの話、俺は病で近々死ぬだろうと思っていたのだ。それが、結局生きのびた。まるで準備ができていなかった。この痩せた体で、何ができるだろう――」

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