寛政11(1799)年 久兵衛 10歳
主屋を出ると、雪が積もっていた。そのまぶしさに、久兵衛は思わず目を細めた。それから、土蔵の二階を一瞥して、雪を踏みながら代官所へ向かった。
時の代官・
久兵衛は博多屋の跡取りとしての自覚を強める一方で、いつまでも土蔵に引きこもったままの兄に対して苛立ちをつのらせていた。
みな、兄に甘い。
病は確かにつらいだろう。どれほど苦しいのかは本人にしかわからない。けれど、兄の病は、体より心にあると、久兵衛は思っている。
何しろ、治そうという気迫が感じられない。家の厄介になっているという恥じらいもない。具合の悪さを言い訳にして、このまま学問も仕事もせず、だらだら過ごそうとしている節がある。
父上はなぜ叱らないのか。母上はなぜ毎朝火鉢の炭を入れてやるのか。それぐらい自分でやらせればいい。
一時は高名な学者の弟子になって、十年に一人の秀才と噂されたそうだけれど、昔は昔。今の兄は尊敬できない。
が、久兵衛はそんな気持ちを、どこであろうと、誰に対してであろうと、おくびにも出さない。笑顔に長けている。
豆田の町並みを抜け、花月川にかかる御幸橋を渡る。欄干も河川敷も、遠くの山々も一様に白く雪をかぶっている。
橋を渡りきればすぐに代官所である。
「さすがに今日は休んでいるだろう」
「いや、あの親父のことだからわからんぞ」
と、二人の役人が話をしていた。
二人は久兵衛に気づいて、
「やぁ、久兵衛」
「この寒いのにご苦労だな」
と、親しげに挨拶した。
久兵衛は父から預かってきた書類を渡し、
「誰の噂をされていたのですか?」
と尋ねた。
「田島村の
「たった独りで井路(水路)を掘っているんだ」
二人の話によると、与兵衛は村の代表として、過去に何度か井路の建設を代官所に願い出ていたが、受け入れられず、ついに単独で工事に乗り出したということであった。
田島村は豆田町の東南に位置し、北の花月川からも南の三隈川からも離れた、水に不便な土地であった。飢饉の折にはこういう場所が真っ先に被害を受ける。久兵衛は知る由もないが、かつて徳兵衛が体験した天明の大飢饉においても、田島村は多数の餓死者を出していた。
与兵衛は、三隈川と花月川を南北につなぎ、田島村とその周辺をうるおす井路を作ろうとしているらしい。
「助けてやりたいのは山々なんだがな」
「井路を作るのは大変な仕事だ」
「金も時間も人手もかかる」
「かわいそうだが、我々にもそんな余裕はないんだ」
と、二人の役人はかわるがわる言った。
届け物を済ませたあとは、遊びに行っていいと父に言われていた。そこで久兵衛は、雪の中、田島村を訪れた。距離にすればほんの一里程度だが、十歳の久兵衛にとってはこれが初めての冒険であった。
「邪魔だ。帰れ」
と、与兵衛は言った。
顎と鼻が異様に尖った、狂犬のような顔をしている。背中は筋肉で大きく盛り上がり、この寒さの中、汗が湯気を立てていた。
井路というのは、地面に溝を掘って作るのだろうと、久兵衛は思っていた。ところが、与兵衛のしている仕事は、山に隧道(トンネル)を開けることであった。
掘っても掘っても上の土が崩れてきて、一向に進む気配はない。けれど、確かに二間(約三・六メートル)ほどの隧道はできていて、与兵衛はその突端で作業をしている。
ここまで掘るのにどれほどの時間がかかったのか。手伝ってくれる人はいないのか。井路が実現すると思っているか。訊きたいことのすべてを飲み込んで、久兵衛は与兵衛の背中をじっと見ていた。
久兵衛が帰りそうもないと見たようで、
「きょうだいはいるか」
と、岩をノミで打ちながら、与兵衛が言った。
「姉が、いまは、京にいます」
と、ノミの音の合間をぬって、久兵衛は答えた。
兄のことは言いたくなかった。
「俺にも姉貴がいた」
と、与兵衛が言った。それから、
「記憶の中の姉貴は、いつも水汲みをしている」
と続けた。
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