同年 徳兵衛 23歳

 安利に遅れること数日、徳兵衛と伊兵衛も東へ向かう船に乗っていた。

 薩摩から大阪へ砂糖を運ぶ菱垣廻船ひがきかいせんである。縦に長い帆は風を受けてぐんぐん進んだ。

 御殿様の甥である伊兵衛は、所用のため、供の職人とともに、大阪にしばらく滞在するということになっていた。

「どうだ?」

「何がです?」

「平気か?」

「ですから、何のことで?」

「気分が悪くはならないか?」

 船酔いのことを言っているらしい。

「そうですね。どうやら、酔わない体のようです」

 と、徳兵衛が答えると、

「俺が初めて船に乗ったときはひどい目に遭ったものだが、そうか、酔わないか。それは何よりだ」

 と、伊兵衛は心なしか残念そうに言った。


 船中で、筆をとった。

 書物を書くということを、以前から考えていた。

 この頃出まわっていた農業に関する書物としては、宮崎安貞みやざきやすさだの『農業全書』がある。安貞は筑前の浪人で、西日本を放浪して各地の田畑を見まわったのち、福岡の周船寺村で自らくわを手に取り、その経験を書き残した。

 徳兵衛も『農業全書』を読んでいた。ただし、この書物は元禄十年、百年も前に出たものである。情報は古い。当然、稲架がけについても書かれていない。

 安貞自身、内容が不完全であることは承知していたようで、

「後世、文才と農業の知識とをあわせ持つ人が現れたならば、どうかこの書を補ってほしい」

 と、謙虚に書いている。

 文才はともかく、知識はある。出版の仕方もわからず、つてもないが、船上にあって他にすることもないいま、書いておいて損はない。

 まずは、家業であるろうそく作りについて書いた。

 いざ始めてみると、思いのほかすらすらと書けた。道徳や国策でなく、技術を説明するだけのことだから、当たり前と言えば当たり前だが、一年間だけでも学問に触れた甲斐はあったのかもしれないと思えた。


「ほう、もう書きあがったのか」

 できたものを、伊兵衛に読んでもらうことにした。

 大阪は大きい町だから、書店もたくさんあるだろう。どうやって出版するのかは飛び込んで訊いてみればいい。もし書物が評判になったら、もう路銀の心配はしなくて済む。そうだ、題名はどうしようか。

 あれこれ考えているうちに、船は淡路島を越え、大阪湾から安治川へ入った。「天下の台所」と呼ばれる大阪の川沿いには、ひしめきあうように白壁の倉が並び、さまざまな生業の人々が行きかっている。徳兵衛の期待はふくらんだ。

 安治川橋の手前に港があり、錨が下ろされ、荷おろしが始まった。

 緩衝材であるむしろを取り払い、樽を担ぐ。砂糖職人として仕事をしていると、伊兵衛が声をかけてきた。

「ちょうど読み終えた」

「ありがとうございます」

 いかがでしたか、と訊くのが憚られ、徳兵衛は次の言葉を待った。

「ちょいと言いづらいが、これでは駄目なのではないかな」

 と、伊兵衛が言った。

 自信があっただけに、徳兵衛はひどくうろたえた。砂糖樽がずしんと重くなった。

「ハゼを植えるのがいかに有益か、ろうそくはどうやって作るのか、読めばわかる。そこはきちんと書けている。しかし、肝心なのは、実行に移そうと思えるかどうかではないか? これまでにも何度か、貧しい百姓にろうそく作りをすすめて、うまくいかなかっただろう。あれと同じことになる気がする」

「……」

 調子に乗って題名など考えていたのが、急に恥ずかしくなった。

 やはり俺には書物など無理だったか。

「何か工夫すればいいはずだ。一緒に考えよう」

 と、伊兵衛は言った。

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