寛政10(1798)年 安利 15歳

「お願いだから、もう一度よく考えて」

 と、母ユイは目をにじませて言った。

 安利は、自分の祈りがまたかげり始めたと感じていた。兄は一日中けだるげで、いつも不機嫌で、学問に目覚める前よりもずっと棘々しい。病の――特に目の――せいなのだから、理解してあげなければと思うけれど、苛立ちをおさえきれず、今日こそ寺へ行くのをやめてしまおうかと思うことが何度もあった。

 このままでは、「兄は私が守る」という、金吾への誓いも破ってしまう。あんな大仰な手紙を書いたのに。

 揺れない人間になるしかない、と、安利は覚悟を決めた。

 尼になることについて、家族のほとんどは理解してくれた。きっと大賛成ではないのだろうけれど、毎日寺へ通う安利を見ていれば、自然なことと思えただろう。

 母だけが、かたくなに反対した。

「仏様にお仕えしたいという気持ちは、とても立派だと思います」

「でしたら、いいでしょう」

「でもね、安利、私はあなたにも、母親になってもらいたいの」

「……それは、どこか力のある商家の、ですか」

 安利がそう言うと、ユイは笑って、

「寅之助みたいなことを言うのね。やっぱり兄妹だわ」

 と言い、目尻の涙を指でぬぐった。

「お父上も私も、あなたを商いの道具にしようなんて思っていないのよ。私はただ、あなたに子を持つ喜びを知ってもらいたいだけなの」

「喜び」。

 それは意外な言葉だった。

 六つ下の久兵衛だけは、いかにも商家の息子らしく育っていた。愛嬌がある。兄に似て物覚えはよいけれど、兄と違って腹に一物ありそうな顔など決してしない。

 一方、兄はあの調子で、私もきっと毎日難しい顔ばかりしている。次の子は、死産だった。

「悲しみ」を感じることの方がずっと多いのではないかと、安利には思えた。

「もちろん、悲しいことや、心配で胸を痛めることもあります。でも、それも全部ひっくるめて、自分のおなかに授かった命が、外の世界で生きているというのは、本当に素晴らしいことなの」

「……」

「安利、金吾さんのこと、どう思っている?」

「何ですか、突然」

「仲良くしてくださっていたわよね」

「兄上のお友達です」

「お父上と長作先生とで、安利を金吾さんのお嫁にやってはどうかって話をしたことがあったのよ、何度か」

「……それは、金吾さんも」

「いいえ。金吾さんがこちらへお帰りになってから、話を進めようとされていたみたい」

「でも、尼になりたいと言ったとき、父上はそんなこと一言もおっしゃいませんでした」

「言えば、あなたを迷わせてしまうとお考えになったんでしょう。でも私は、あなたの将来のために、迷ってほしいと――できれば、母親になる道を選んでほしいと思っています」

「……」

 金吾さんと、私。

 考えもしなかったといったら嘘になる。でも、はかない空想で終わるはずだった。

 私がお寺通いを始めて、金吾さんは四極先生のもとで学問を始めて、一緒に遊ぶということはなくなったけれど、たまに目が合えば、少なからず、気持ちが華やいだ。

 あの人と所帯を持って、あたたかい家庭を築く――本当にそんなことができたら、どんなによかっただろう。

 あの状態の兄を残して、自分だけしあわせになるなど許されない。

 標をつけてくださいと頼んだのは私なのだから、責任をとらないといけない。

「金吾さんはお正月に帰ってくるそうだから……」

「でしたら私は、今年のうちに家を出ます」

「どうしてそんなこと」

「どうしてもです」

「……」

「嫌いです、あんな人」

 と言って、安利はその場を離れた。

 これ以上話せば泣いてしまうと思った。


 三度日田を訪れた豪潮律師のすすめで、安利は尼になるのではなく、律師の帰依者である宮中の女官・風早局かぜはやのつぼねに仕えることとなった。

 話がまとまってすぐ、安利は長作先生のもとへ挨拶に訪れた。

「ずいぶん急なことで、驚いたよ」

「以前から考えてはいたのです」

「ご家族はなんと?」

「……ご理解いただきました。私の決意がかたいことを」

「そうかね。しかし、残念だ。金吾のやつもさみしがるだろう」

 金吾という言葉を打ち消すように、安利は早口で、

「長い間お世話になりました。どうか兄のこと、よろしくお願い致します」

 と言った。

「うん。私なりに、最善を尽くすよ」

「ありがとうございます」

「ところで、夜は眠れているかね」

「夜、ですか?」

「目の下にクマがある」

 気づかなかった。日頃、鏡などろくに見ない。

「初めての遠出を控えて、不安な気持ちもありますけれど、おかげさまで、眠れてはいます」

 安利がそう言うと、長作先生は何か言いよどんでいる様子だったが、結局、

「体を大事にしなさい」

 とだけ言った。


 安利を乗せた船は、中津から瀬戸内の海を順調に進んだ。

 日田の子どもたち――寅之助も金吾も徳兵衛もそれぞれに旅をしていたが、九州を最初に出るのが安利になるとは、誰も思わなかっただろう。

 明け方、船主に立ち、東を見た。兄へのこじれた気持ちも、金吾を失った悲しみも、潮風に吹かれて、西の空に消えていくように感じられた。

 瞳を閉じ、そっと掌を合わせ、祈った。

 私はどうなってもかまいません。兄の体がよくなりますように。

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