寛政7(1795)年 昭陽 23歳

 似ていない親子だと、よく言われる。

 父は昼間でもしょっちゅう酔っ払っている。私は一滴も酒を飲まない。

 父は思ったことのほとんどを口に出す――おそらく、そうしている。私は飲みこむことの方が多い。

 父は人前でも平気で屁をこく。そういう時、私は黙って障子を開ける。

 補うために異なるのだ――と、昭陽は考えている。亀井南冥を支えているという自負が、矜持そのものと言える。

 藩の方針で私塾を潰されてから、父は酒の量が増えた。体に悪いからやめてほしいと言ったところで、聞く耳があろうはずもない。以前からずっと酒の勢いで学問をしてきたような人なのである。


 去年の夏には、こんなことがあった。

 夜、ふんどし一丁で帰ってきた。着物は自分の反吐で汚れたので捨ててきたという。水を飲ませ、布団に運んでやった。父はすぐさま大いびきをかき始め、それがうるさいと言わんばかりに、おもての戸が激しく叩かれた。

「何事です、こんな夜分に」

 出てみると、目つきの悪い男たちが十人ほど集まっていた。一様にいきりたった気配で、頭や肩から湯気が出ているかのようだった。

 腰に刀を差している者もいる。あの顔は確か、藩士の息子で、父のかつての教え子だ。

「俺たちゃついさっきまで、こちらの先生と楽しく飲んでたんですがね」

 と、一同の中心らしき大柄な男が、黄色い歯をむき出しにして言った。

 昭陽の胸中では、父へのあきれとあわれみが渦を巻いた。よりによってこんな連中とつるんでいたとは。

「何が気にさわったか、先生ったら、いきなり俺の顔につば吐きかけてお帰りになったんですわ。いかに天下の亀井南冥先生でも、一言詫び入れてもらわにゃ、こっちは引きさがれませんのでね」

 父はあの状態だ。無理やり起こしたところで、どうしてツバなど吐いたのか覚えてはいないだろうし、覚えていたとしても詫びなどあり得ない。

「父がとんだ無礼を致しました。どうか今日のところは、私に免じて」

 と、昭陽は頭をさげた。

「あんたはお呼びじゃねえんだ」

 と、大柄な男が吐き捨てるように言うと、

「さっさとあのじじいを出せ!」

「ぐずぐずすんな!」

 取り巻きの連中も騒ぎだした。

 父の権威は地に墜ちている。いじけた自分を世間にひけらかしているのだから無理もない。

 だが、私だけは何があっても父を見捨てない。

「お許しください。どうか、この通りです」

 膝をつき、地面に額をつけた。

 ごろつきどもは、静まるどころか、調子に乗ってますますがなりたてる。

「まぁみんな、聞け」

 と、一人が言った。

 鼻にかかった声。聞き覚えがある。確か、父の元教え子。

「哀れな父親のために土下座までしている。朱子学の精神からすれば立派なものだ」

 罵声は騒音でしかなかったが、これには体が熱くなった。

 徂徠学派の私たちを、そんな言い方で侮辱するとは。

 しかし、言い返してはならない。我が福岡藩は幕府が昌平坂で出した〝異学の禁〟にならったのだ。ここで徂徠学をふりかざせば謀叛者になってしまう。

「この心意気に免じて、今日のところは引きあげようではないか。なぁ?」

 と、元教え子。

 ごろつきどもは不満の声を漏らしながらも静かになった。

 どうやら、先ほどの大柄な男でなく、こちらが本当のまとめ役らしい。

「顔を上げてください、昭陽さん」

「……」

「ところで、ぶしつけではありますが、厠をお借りしても?」

「は、それでしたら――」

 と、立ち上がって案内しようとした時、頭上から生温かいものが降ってきた。

「ああ、ここにいい厠があった」

 下衆どもの哄笑。

 悪臭。

 地獄のような時間は、永遠に続くかのように思われた。

 地面をつかんで耐えた。爪と肉の間に、濡れた土が食いこんだ。


 小便を浴びせられてまで、守ってきたのだ。

 尽くしてきた。

 朱子学の精神などでは断じてない。

 私自身の意思でそうしてきた。

 当の父からは邪険にされても一向にかまわない――と、思っていた。今までは。

 日田から来た内山玄簡げんかんという十四歳の少年が、すべてを変えた。

「そうですか。四極さん、そんなことを言っていましたか」

 玄簡の話を聞いて、父は笑う。あんな明るい声を聞いたのはいつ以来だろう。


 亀井塾が潰された後、昭陽は藩校「修猷館しゅうゆうかん」で教鞭を取っている。父と違い、朱子学派の人間を演じることができた。

 福岡藩では徂徠学派を追いやると共に、藩校に他藩の人間を入れてはならないという決まりが作られた。他藩の者が混じれば朱子学派以外の勢力が再び盛り返さないとも限らない。それを警戒しての措置であろう。

 玄簡の元の名は寅之助。日田の商人の息子で、流浪の学者――というより父の飲み仲間――四極の紹介でここへやって来た。福岡藩の人間になるために、これまた四極の紹介で、内山玄斐げんぴという医者の養子にしてもらったという。

 玄簡は、美男子であった。目鼻が整っているというより、知性と、どこか儚げな雰囲気が、見目を映えさせている。額の中心にあるごく薄いほくろも、知的な印象を際立たせていた。

 玄簡は実際、記憶力も思考力も優れていた。学問への意欲は、その若さで焦りすぎではないかと思うほどであった。討論では年上の生徒たちにまだ及ばないが、詩作は抜きんでていた。

 そんな玄簡が、父は大いに気に入ったらしい。蟄居の身であるのもおかまいなしに、自室に呼び、個人教授をした。玄簡が軽くたしなめただけで、酒の量が減った。


 庭の甘棠(花梨)は見ごろを過ぎ、散った花びらが地面で朽ちている。

 ずっと私が父を守ってきた。亀井南冥は偉大な学者である。敬愛している。敬い、愛しているから、守ってきた。小便をひっかけられても、耐えた。

 志賀島の金印を研究していた頃のような、いきいきとした姿を、笑顔を、もう一度見たかった。必ず復活する。そう信じてきた。

 信じた通り、父は復活した。ただし、長年尽くしてきた私ではなく、突然現れた少年の手で。

 私の詠んだ詩については「良し」か「悪し」しか言ってくれなかった――それもほとんど「悪し」だった――のに、玄簡の詩に対しては雄弁になった。絶賛し、どこを直せばより良くなるか、事細かに語った。

 喜ぶべきだ。本来は。いきさつは何であれ、元気になったのだから。

 見返りが欲しくて守ってきたわけではない。父のためになりたい。その一心だった。

 報われなくてもかまわない、はずだった、のに。


 られた。


 横取りされた。見ず知らずの子どもに。やけに大人びた話し方をする、鼻もちならない餓鬼に。

 認めよう。私は嫉妬している。九つも年下の玄簡が羨ましいと思っている。

 父が笑顔になるのは、私のおかげであってほしかった。私に向けてほしかった。

 あんな子どものどこがいいのか。賢くはある。が、あのぐらいの頃の私と比べて、必ずしも玄簡の方が優れているとは思えない。

 神童となら、私も呼ばれた。わき目も振らずに学んだ。勤しんだ。十九の時には『成国治要』を書いた。親の七光りでなく、実力で、藩校を任されている。

 学問では、決して負けてはいない。

 ならば、見目か。

 醜男であることを、今までは苦にしていなかった。容貌など表層に過ぎない。気にするだけ無駄だと。

 無駄ではある。変えられないのだから。無駄だとわかっていても、玄簡が見目の良さで父に気に入られたのなら、どうして涼しい顔をしていられようか。

 涼やかでないのだ。私は、目もとが。見るからに賢そうではない。

「見目が悪いから愛してくださらないのですか」

 そんなこと、訊いてどうする。

 そうだと言われたらどうする。

 自分の首をはねて、祇園祭で山鉾を作っている有名な人形師に新しい顔を頼めばいいのか?

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