寛政6(1794)年 徳兵衛 19歳

「仕方ない。野宿だな」

 と、伊兵衛が言った。

 山頂に降った雨がいく筋かの川になるように、天領・日田からは「日田往還」と呼ばれる街道が五本走っている。そのうちの一本、南へ向かう日田往還の小さな宿場町にいま、二人はいる。

 春の訪れを待って旅に出ようと考えるのはみな同じだったようで、旅籠が満室で泊まれないというのはすでに二度目であった。すなわち、野宿も二度目である。

 一度目の時、伊兵衛は手慣れた様子で焚き火を起こし、さっさと寝入ってしまった。徳兵衛は、ぱちぱちと枯れ枝が爆ぜる音を聞きながら、火が着物や荷物に燃え移らないだろうか、野犬が襲ってこないだろうかなどと、あれこれ心配して、あまり眠れなかった。

 今日は、一度目の時より少々冷える。また、折悪く朔(新月)である。

「宿をお探しではありませんか」

 と、声がした。

 振り向くと、人のよさそうな丸顔の老人であった。

「ええ。どこもいっぱいだったので、そこらで野宿でもしようかと」

 と、伊兵衛が応じた。

「野宿などと、お侍様がそれはいけません。ここから少し歩いたところに私の家があります。むさ苦しいところですが、お泊まりになりませんか」

「それは助かります」

 と、伊兵衛が言った。

 徳兵衛は内心、胸をなでおろした。


 日暮れ前にたどり着いた。

 なかなか年季の入った一軒家であった。襖はしみだらけで、障子はあちこち破れている。それでも屋根と床があるぶん、野宿よりはよほどましと思えた。

 二人を部屋に通すと、

「では、ごゆっくり」

 と言って、老人は姿を消した。

 徳兵衛が荷を解こうとするのを、

「まぁ待て」

 と、伊兵衛が止めた。

「何を待つのですか?」

「ちょっとこいつを持っていてくれ」

 と、伊兵衛は徳兵衛に杖を手渡した。

 わけがわからず、立ち尽くしていると、今度は若い男が現れた。

 老人の息子だろうか。面長で、あまり似ていないが。

「お疲れでしょう。白湯でございますが」

 と、男が愛想よく言った。

 伊兵衛は、

「や、かたじけない」

 と、湯呑みを受け取ったが、口はつけず、

「ところで、宿賃の話をしておりませんでしたが、おいくらで?」

 と言った。

「ああ、うちは旅籠でも何でもない、ご覧の通りのボロ家ですから――」

 続く言葉は「結構です」ではなく、

「――一両もいただければ」

 であった。

 そんな大金、払えるわけがない。徳兵衛の家で作る七匁のろうそくが百本……いや、二百本は買える。

 冗談だろうと徳兵衛は思ったが、男の目はもう笑っていなかった。

「もしお手持ちがないようでしたら、ありったけでかまいませんので」

 身ぐるみ置いていけ、と言っているのだ。

 脈が急激に加速していく。

 男の前歯が一本折れているのに気づいて、徳兵衛はそれがやけにおそろしかった。

「うん、やはりか」

 と、伊兵衛がのん気な声でいった。

「徳兵衛」

「は、はい」

「弟子は取らん主義だと言ったが、ちと訂正する。弟子になりたいと言われたことがないだけでな。慕ってもらえればもちろん嬉しい。何かを教えてやりたくもなる」

「何ごちゃごちゃぬかしてやがる」

 と、男が伊兵衛につかみかかった。

 徳兵衛は思わず手元の杖を握りしめた。

 伊兵衛は声色を少しも変えずに、

「世の中にはこういう輩もいるということを、いい機会だから、お前に見せておきたかったんだ」

 と言った。

「無視してんじゃねぇぞ!」

「失敬。仲間は何人だ?」

「あ?」

 と凄んだ男は、みるまに顔をひきつらせ、膝から崩れ落ちた。

「何人でもかまわん。俺が潰す」

 伊兵衛はいま男のみぞおちにめりこませた刀の柄に右手をかけ、左手の鞘をゆっくりと引いた。

「待ってください」

「安心しろ、徳兵衛。お前を危険な目には遭わせない」

「あの、命だけは――」

「守ってやると言っているだろ。でかいなりをして、情けないぞ」

「――命だけは、助けてやってください」

 伊兵衛の細い目が、見開いた。

「貧しいせいだと思うんです。こんなことでもしなければ、食べていけなかったんです、きっと」

「……」

「伊兵衛さんが、稲架干しの仕方を教えてくださったでしょう――親父は受け入れませんでしたけど。日本中の百姓が、お互いに上手いやり方を教え合って、自分の仕事に取り入れることができれば、飢える人間はいなくなるはずです。どうか、お願いします」

 伊兵衛は、足元でうずくまっている男と徳兵衛とを何度か見比べたあと、天井を見上げて、

「うーむ、もう一度訂正だな。むしろ俺が弟子になりたいと思ってしまった。やはり対等の仲間でいよう」

 と言った。

「とは言え、ひとまずこの場は切り抜けるしかない。みね打ちで済ませる。それでいいな?」

「ありがとうございます」

 と言って、徳兵衛は頭をさげた。

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