翌日 寅之助

 風に乗って、冬が近づいてきている。

 早朝の戸外の空気に、寅之助は身ぶるいした。

 例年、冬の始めと終わりに体調を大きく崩している。最近は調子の良い日が続いているが、油断はできない。

 中庭の銀杏が散る中、伊兵衛に教わったやり方で木刀の素振りをする。それから、筆入れと紙を風呂敷に包み、秋風庵へ向けて歩き出す。

 道すがら、雲が桃色に輝く、まぶしいほどの朝焼けを見た。


 到着すると、伯母が握り飯と熱い茶を用意してくれていた。

「いただきます」

「はい、召しあがれ」

 丸窓から見えるすすきの原が波打つように揺れている。源頼光になりきってあそこで駆けまわっていた自分と、定めを知り、土蔵の二階で腐っていた自分、そして今の自分が、どれも別人であるかのように寅之助には感じられた。

 頼光であった頃は、酒呑童子をやっつけたかった。学問に目覚める前は、静かに消えていきたかった。では、いまは? いま、俺は何がしたいのだろう。四極先生に習い始めたばかりの頃は、学問がただ面白く、このまま続けていれば何者かになれる気がしていた。けれど、学べば学ぶほど、世の中には自分が知らないことばかりだと思い知らされる。

 やはり、遊学をしなければ始まらない――と、寅之助は考える。

「俺も学者連中の間じゃ名の知れた方だと思うが、世間じゃとんと無名なんでな」

 と、四極先生が言っていた。学歴を作る意味でも、金吾のように一皮むけるためにも、遊学に出なければならない。

 亀井塾が閉鎖になってしまったので、四極先生や父に頼んで他の遊学先を探してもらっているが……。

 ふすまが開き、

「おぅ、寅」

 と、平八が顔を出した。

「おはようございます」

 平八は昔と変わらずに接してくれている。しかし、三郎右衛門の元に連れ戻されてから、寅之助は平八を呼んだことがない。

 昔は「父上」と呼んでいたので、急に「伯父上」になるのもどことなくむず痒いのである。伯母に対しても同様であった。

「金吾はもう来てるぞ。二階にいる」

「ああ、そうでしたか」

「こんな朝早くに、四極先生は何を企んでるんだ?」

「それが、本当に聞かされていないんです。ただ、朝五ツ(午前七時頃)までに、秋風庵へ来いと」

「来てるな」

 と、丸窓から四極先生の顔があらわれた。

「おはようございます」

 と、寅之助と平八が声を揃えた。

「どうも、平八さん。すいませんね朝早くに。場所、お借りしますぜ」

「場所ぐらい喜んでお貸ししますが、四極先生、一体何をなさるおつもりなんです?」

「なぁに、ちょっとした特訓です」

 特訓。

 四極先生はいつにもましてにやにやしている。

 何をしようというのだろう。

「二階へ行くぞ」

「はい」


「今日は漢詩を詠む」

 と、四極先生はさらりと言った。

 一日一首の訓練は、寅之助も金吾も、ずっと続けている。近頃は詩人の好みを語り合うこともある。

「夜四ツ(午後十時頃)までに百首詠め」

 そう言われて、二人は思わず顔を見合わせた。

 百首? 今日一日で?

「課題は七言絶句と五言律詩を五十首ずつ。今日まで説明しなかったのは、お前らに前もって考えさせないためだ。この場所を選んだのは、眺めがいいからだ。題材を探しに出歩いてもいい。休みは自由に取っていい」

 百首会だ。詩人たちが戯れに開くと聞いたことがある。

「何か質問は?」

「二人合わせて百首ですか?」

 と、金吾が言った。

「いや、一人百首だ。他に質問は?」

「……」

「じゃ、始めろ。俺は寝る」

 と言って、四極は本当に横になった。


 将来――と呼べるほど「先」はないのだが――への不安も、詩に込めた。

 秋風庵からの眺めは確かに美しい。けれど、そればかりにとらわれることはない。

 書物で知った中国の故事や、先日伊兵衛から聞いたばかりのロシアという国のことも、想像力を働かせれば題材になる。

 四極先生への感謝や、金吾への対抗心も詩にした。

 毎日何かを祈っている妹、年の離れた弟の成長、伯父夫婦への微妙な心情。

 自分の体への呼びかけ。定めはどうにもなるまいが、その時が来るまで、できるだけ健やかでありたい。病の床にあってはものを考えるのにも難儀する。

 いつもより遠く、鐘の音が聞こえる。昼九ツ(正午過ぎ)、四十五首に達した。この調子なら間に合う。

 四極先生は、いつの間にか起き出して、二人を眺めたり、誰か宛の文を書いたり、また寝たりしていた。


 傾いた陽が雲に隠れて、雨が降り始めた。

 雨は格好の題材になりそうなものなのに、書くべき文字が見つからない。気力が途切れてきたらしい。

 金吾の手は順調に動いている。いま、何首なのだろう。今日は一言も会話を交わしていない。

 焦る気持ちを悟られないように、なるべくゆったりと立ちあがり、南を見た。

 こんもりと樹が生い茂る日隈山が見える。三隈川の流れを二つに割く中州にあって、山というほどの高さはない。その下流には星隈山があり、ここより北、花月川を渡った先の代官所は月隈山のふもとにある。平坦な日田盆地の中で、この三つの〝隈山〟だけがかすかに出っ張っていて、寅之助の住む豆田はその中央にある。

 三隈川と言えば、徳兵衛の実家が確かあの川の近くにあるということだった。あのあたりに広がる田畑のどれかは徳兵衛の家のものなのかもしれない。

 いま、田んぼに働く人の姿はなく、わら焼きのあとの煙は雨のために昇れず、低く地面を這っている。その情景から、五言絶句を一首詠んだ。


 穫稲人帰尽(いねをかるひとかえりつくし)

 空濛暮雨寒(くうもうとしぼうさむし)

 野烟低不起(やえんたれておこらず)

 処処白成団(しょしょにしろくだんをなす)


 苦しみながら捻り出したが、悪くない出来と思えた。

 残り三十首。

 まだ三十もあるのか。


「……之助、寅之助!」

 金吾の声。

 飛び起きる。

 ろうそくの火。

 外はすっかり暗くなっている。

 しまった――休みすぎた。

 今何刻だと金吾に訊こうとした時、四極先生が言った。

「時間切れだ」

「……」

 手元の紙には、正の字が十八。九十首。

 届かなかった。

 よく眠ったせいか、頭が冴え、いまなら十首ぐらいすぐに詠めそうな気がする。

「金吾は成しとげたぞ」

 四極先生の声が胸を刺した。

 頬が熱くなる。

 今すぐ消えてしまいたい。

「申し訳ありません」

「謝るようなことじゃねえ。自由に休めと俺は言った」

 と言って、四極先生は立ちあがり、階段をおりていった。

 あきれられた――そう思った。

 何をやっているんだ俺は。

 何が遊学だ。

 拳を握りしめ、手のひらに爪を立てた。

「寅之助」

 と、金吾が口を開いた。

「実は、しばらくお別れになるんだ」

 膝に落としていた視線が、金吾に飛んだ。

「昔、にんじんを分けてくれた人がいたこと、覚えてるか?」

 土蔵にこもっていた頃だ。

 寅之助は黙ったまま頷いた。

「あの先生に弟子入りさせてもらえることになったんだ。俺は肥後へ行く。医者になる」

 ろうそくの火が照らし出す金吾の顔は、前より一層、大人びて見えた。

 外でコオロギが鳴いている。

「明日、父上と二人で発つ。向こうに着いたら、父上はすぐこちらへ帰ってくる」

「……」

「みなには黙って行くつもりなんだ。亀井塾へ行った時みたいな派手な見送りは、ありがたいけど、ちょっと恥ずかしいしな。みなには、お前からよろしく言っておいてほしい」

「わかった」

 としか、言えなかった。それ以上の言葉が出てこない。

「このことを四極先生に話したら、今日の特訓を考えてくれた。最後にいい思い出になったよ。誓って言うが、特訓の内容は事前に聞いていたわけじゃない。俺も必死だった。寅之助、お前と競ってなきゃ、俺はきっと百首に届かなかった」

「……」

「もう一つ言っておきたいことがある。俺な、お前の病を治してやりたかったんだ」

「え?」

「お前を治せば、安利ちゃんが俺の方を振り向いてくれるんじゃないかと思ったんだ――って、お前には勘づかれてたよな」

 そう言って、金吾は少し寂しそうに微笑んだ。

 昔のことだと思っていた。

 まさか金吾は、今も。

「俺が何かしなくてもお前はすっかり丈夫になったし、安利ちゃんはお寺通いで忙しい。だから肥後へ行くってわけじゃないんだけどな。信じてくれ。今は純粋に医者になりたいんだ。きっかけをくれて、二人には感謝している」

「……」

「冬が来るな。お前は毎年、冬場が危ない。体を温かくしろ」

 階下で戸が開き、

「金吾、長作先生がお見えになったぞ」

 と、四極先生の声が飛んできた。

 迎えに来たのだろう。

「じゃあな、寅之助。お前にも遊学の機会はきっと来る。頑張れよ」


 二人とも知る由もないが、この金吾の〝励まし〟は正真正銘、心からのもので、標をつけられた寅之助にはよく効いた。その年の冬を寅之助は一度も病に伏すことなく過ごせたのである。

 そして二年後、ついに遊学の機会が巡ってきた。蟄居させられた亀井南冥先生に代わり、息子の亀井昭陽かめいしょうよう先生のもとで学べることとなった。

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