翌日 徳兵衛

「うまそうだな。蜜のようだ」

 ハゼの実から搾りとった液を見て、伊兵衛がのん気なことを言っている。一昨日、実を口にしてひどい目にあったというのに、まったく懲りていないらしい。

 代々ろうそくを作り続けてきた工場は、棚も道具も、そこにある何もかもがうっすらとろうをかぶり、つやつやと光っている。

 職人たちは伊兵衛を無視して黙々と仕事を続けている。普通なら見物人など追い払われるはずだが、お侍様だからというのと、それ以上に、伊兵衛の無邪気な笑顔にほだされているのだろう。

 液を鍋に入れて炭火にかけ、指で温度を測る。

「熱くないのか?」

 気持ちを集中する。伊兵衛に返事をしている余裕はない。

 二年ぶりだ。適温が思い出せない。去年の秋は携わらせてもらえなかった。

「……」

 このぐらい、か?

 まだぬるいだろうか。

 最初の温度が肝心だ。熱すぎてもぬるすぎても、芯に蝋が乗らない。

「親方、すいません。温度見てください」

 と、父を呼ぶ。

 父の指が鍋に入り、ただちに怒号が飛ぶ。

「馬鹿野郎。まだぬるいじゃねえか」

「すいません」

「何もかも忘れやがったか、この馬鹿たれが。ふらふら遊んでるからだ」

「……」

 学問をしていた――と、父は認めてくれない。いまだにちくちくと嫌味を言う。

 けれど、何も言えない。

 長福寺で学んだことは、事実、仕事には何の役にも立っていない。仕事ができないのは恥ずかしいことだ。

「どいてろ」

 と、父は徳兵衛を突き飛ばし、鍋の前に腰かける。

 左手の小指で温度を測り、適温と見るや、右手で脇に置いてあった芯を取る。

「そりゃ何です?」

 と、出し抜けに伊兵衛が質問をした。

 父は大儀そうに伊兵衛を見たが、他の職人たちの例に漏れず、毒気を抜かれてしまったようで、

「い草の皮を剥いて、竹の軸に巻き付けたもんです。これがろうそくの芯になります」

 と、がらにもなく優しく説明した。

 芯を液に浸し、うちわであおぎながら定着させる。

 それから、炭を足して、液の温度をほんの少しだけあげる。

 再び芯を浸し、手でこすりながら塗りつけ、乾かす。何度も重ね塗りして太くしていくのである。

「ちょいと触らせてもらっても?」

 と、伊兵衛。

「どうぞ」

 と、父。

 伊兵衛の指がおそるおそる、液に触れる。

「熱っ!」

 その悲鳴に、職人たちの視線が一瞬だけ集まる。

 必死で指に息を吹きかける伊兵衛に、

「熱めの風呂ぐらいのもんでしょう。慣れりゃ平気になります」

 と、父が言った。

 十分な太さになったら、少し冷ました液で仕あげ塗りをする。と、表面がなめらかになる。

 熱した包丁で、芯の頭を残し、先端を切り抜く。

「おお、ろうそくになった!」

 と、伊兵衛が嬉しそうに言った。

 父は口元がゆるむのを押さえつけるように、

「あとやっとけ」

 と、低い声で徳兵衛に言った。


 昼飯の頃には、伊兵衛はすっかり工場に馴染んでいた。

 誰が相手でもすぐ適温になれる人だ、と徳兵衛は思った。

 伊兵衛は、漂流してロシアという国へ行き、十年ぶりに帰ってきた人の話を、冗談を交えて語り、職人たちを笑わせている。

 侍に生まれたかった。侍なら好きなことができる。学問をしても文句は言われない――いや、侍なら飢饉が来ても飢えはしないのだから、学問をして世の中を変えたいなどとは思わなかっただろうか。

「話は変わりますがね、親方」

 と、伊兵衛が父に言った。

「刈り取った稲をいま、田んぼに広げて干していらっしゃるでしょう」

 徳兵衛の家では、米作りとろうそく作りを並行して行っている。他の百姓より多少裕福なのはそのためであった。

「ええ、それが何か?」

「庄内の方じゃ、木や竹で柱を立てて、それに横木をかけて、稲架っていうものを作っていました。それに稲を引っかけて干せば、地面からの湿気や急な雨で稲の質が落ちるのを防げるそうなんですよ」

「へぇ……そうですか」

 と、それまで機嫌よく話していた父は、途端に声色を暗くした。

 伊兵衛はおかまいなしという様子で、

「真似しませんか?」

 と言った。

 父は暗い目をして、黙り込んだ。

 職人たちも口を閉ざし、みな露骨に気分を害された顔をしている。

 やがて父が言った。

「あんたはお侍様だ。百姓じゃねえ」

「仕える先をなくしているのですが、まぁ百姓ではありませんな」

「どちらのお生まれで?」

「筑前です」

「そうですか。筑前のお侍様がどうして日田の百姓に口出しをなさるんです」

「いやいや、口出しなどと。私はただ、自分の見聞きしたやり方をお伝えすれば、皆さんのためになるかと……」

「うちにはうちのやり方があるんです。放っといてもらいましょうか」

「……失礼。素人が、出すぎたことを申したようです」

 このとき徳兵衛の中では、父への理解でも、侮蔑でもない、まったく別の感情が巻き起こっていた。

 学問――百姓――つながった。

 見つけた。

 世の中を変えるのは、頭の良い奴に任せておけばいい。俺のやるべきことは、百姓を変えることだ。

「お前ら、仕事に戻れ」

「へい」

 職人たち、それぞれの持ち場へ戻っていく。

 さすがの伊兵衛も気まずくなったようで、

「では、私はこれで。よいものを見せていただき、ありがとうございました」

 と告げて、その場をあとにした。

 見送る者は誰もいない。

 徳兵衛は、少しだけためらってから、伊兵衛のあとを追って飛び出した。

「おい、どこへ行く!」

 背後で父が怒鳴ったが、かまわずに走った。

「伊兵衛さん!」

「おお、徳兵衛。悪いことをしてしまったな。まぁこうなるような気はしていたんだが」

「俺を弟子にしてください」

 と言って、徳兵衛は頭をさげた。

「弟子? 何の弟子だ?」

「書を読むばかりが学問ではない――伊兵衛さんのおっしゃった言葉の意味がやっとわかりました」

「……ふうむ……」

 徳兵衛は頭を垂れたまま、伊兵衛が鬢をかく音を聞いた。

「あいにく弟子は取らない主義でな。仲間になるなら、共に行こう」

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