翌日 寅之助 12歳
博多屋に訪ねてきた伊兵衛は、寅之助が日夜学問に励んでいるということを、実の父親のように喜んでくれた。
「剣も習っているのか?」
「いえ、素振りをしているだけです」
「そうか。握りを少し直した方がいいな」
「え?」
「自分の手を見てみろ」
と言われて、寅之助は両手を開いた。
伊兵衛はその手を取って言った、
「右手親指の付け根に豆ができている。これはほとんど右手で振ってしまっている上に、握りがゆるんでいるせいなのだ。正しくは左手で支えて、右手はほとんど添えるだけにする。そして、雑巾をしぼるように、手首を内側に入れる」
と言いながら、伊兵衛は杖でその握り方の実演をしてくれた。
「正しく握れていれば豆は左手の薬指の付け根あたりにできるはずだ」
寅之助は礼を言いながら、この飄々とした男が――流れ者とはいえ――武士であるということを、いまさらながら実感していた。
思い返してみれば、あのチャンバラごっこもたやすうく真似できる芸当ではない。子ども相手とは言え、木刀を持った多勢に囲まれて、怪我をすることもさせることもなくさばいていたのである。
城下町でない日田には、自然、武士が少ない。代官所には武士が務めているが、ほとんどが他所から派遣されてきた者で、その数も少ない。博多屋をはじめとする商人たちが力を持っている町である。
自然、武と縁遠い暮らしになる。
金吾が亀井塾で短い間に強い胆力を身に付けたのは、初めて出会う、武家の子どもたちの影響と言えるだろう。
伊兵衛が久兵衛をおぶってどたどたと走りまわっているところへ、安利が帰ってきた。
今日も長福寺に行ってきたのだろう。一体何をそう熱心に祈っているのだろうか。
「おお、安利ちゃんか! すっかり大きくなって!」
と、伊兵衛は安利を両手で抱え上げ、何がおかしいのか、大笑いした。
背中の久兵衛も、安利も笑っている。
知らない人には伊兵衛が家族の一員としか見えないだろう。
火鉢のような人だと、寅之助は思った。ただそこにいるだけで、周囲を明るく、温かくする。
今度はいつまでいられるのか――と、たずねようとして、やめた。聞いてしまったら寂しい気持ちになると思った。
案の定、伊兵衛は四極先生ともすぐに打ち解けた。
「一緒に飲める相手が欲しかった。坊主どもはやらんのでな」
と、四極先生は嬉しそうに、ボロボロの行李から徳利を取り出した。
その日は夜遅くまで酒を酌み交わしていたようである。
翌日、寅之助は伊兵衛・四極先生・金吾と並んで、花月川に釣り糸を垂れていた。
抜けるような秋空の下、日田盆地を囲む山々はうっすらと色づき始めている。湿気を含んだ土手の青草の匂いと、金木星の香りが混じり合う。
竿を出してから、まだ誰にも当たりは来ていない。
「伊兵衛さんよ、昨日の話、こいつらにも聞かせてやってくれ」
と、四極先生が言った。
伊兵衛はとぼけた口調で、
「はて、どの話でしょう。別れた女房の話でしょうか?」
と言った。
「馬鹿、違ぇ違ぇ。子どもにそんな話してどうすんだよ」
と、四極先生は笑った。
「俺はその話にも興味がありますが」
と金吾が言い、四極先生はますます笑った。
大人たちの会話に躊躇なく入っていける金吾が、寅之助はうらやましかった。
「伊兵衛さんは遥か北、松前まで行ってきたそうだ」
「ああ、その話ですね」
松前と言えば、京より、江戸よりもさらに遠く、北の果てだ。海の見えない日田に住む寅之助にとっては、異国も同然と感じられる距離であった。
「二人とも、
「いえ、初めて聞く名です」
と、金吾。
「俺も」
と、寅之助。
「そうか。なら、このあたりでは俺が第一報かもな」
と、伊兵衛は浮きを見つめながら言った。
「天明二年だから、ああ、ちょうど寅之助が生まれた年だな。江戸を目指して伊勢の白子港を出た大黒屋光太夫の神昌丸が、遠州沖で難破した。十七人の乗組員を乗せた船は漂流の末、ロシアのアムチトカという島に流れ着いた。シベリアという、まつ毛に霜がつくような極寒の大地を旅して、帝都ペテルブルグにたどり着いた時、仲間は船乗りの磯吉と光太夫、二人きりになっていた」
「……」
想像が追いつかない。
四極先生に『万国総図』(世界地図)を見せてもらったことがある。ロシアという国は確か、松前より、蝦夷地よりも向こうにある大国だ。
まつ毛に霜がつく寒さとはどれほどのものなのか、そんな土地に何故わざわざ人が住んでいるのか、寅之助にはわからないことだらけであった。
「その光太夫と磯吉が先月帰国して、いま江戸じゃその噂で持ち切りだ。知り合いはさぞ驚いただろう、とっくに死んだものと思っていただろうからな。で、このとき光太夫たちと一緒にラクスマンって男がやって来て、幕府に交易を申し入れたらしい」
「ロシアとしちゃ、漂着民を帰してやるっていう親切心が半分、それをダシにして交易を迫ろうっていう下心が半分――そんなとこだろうな」
と、四極先生がつけ加えた。
鎖国時代の終わりの始まりは、一般に嘉永六年の黒船来航とされることが多い。町民たちは逃げ惑い、侍たちはいきり立ち、老中たちは慌てふためく――まさに青天の霹靂であった、と。
しかし、徳川幕府に対する開国要求は、このラクスマンが最初である。
時の老中・
ラクスマンの来訪を機に、幕府が『海国兵談』を見直し、異国への備えを始めていれば、幕末の事象はかなり違ったものになっていたかもしれない。
四極先生は目を細め、遠く川下を眺めている。花月川は三隈川と合流し、やがて長崎に注ぐ。
「昌平坂で異学を禁止して、亀井南冥たち徂徠学派を引っこめさせたところへ、このロシアからの使者だろ。幕府が異物を拒めば拒むほど、異国はむしろ近づいてくるような気がしてならねえ。寅之助、金吾、お前たちが俺ぐらいの歳になる頃、この国は大変なことになってるかもしれねえぞ」
上流から流れてきた小枝が石に引っかかって止まるのを、寅之助は見た。
四極先生の歳までは、生きられない。
徳兵衛から託された切実な願いに対しても、どう応えたらよいか、いまだに答えが出ていない。
他人から期待をかけられても、真正面から受けとめることができず、逆に何もかも投げ出したくなる気持ちに襲われた。
「ああ、金吾、繰り返しになるが、俺は朱子学派を否定してるわけじゃねえ。国が一つにまとまってなきゃ、異国になんか対抗できるわけがねえからな」
「はい。ありがとうございます」
二人のやりとりを聞きながら、寅之助は、いっそ寿命の秘密を打ち明けて、俺も金吾に託してしまおうかと考えている。
本気ではない。が、まったくの夢想でもない。
「寅」
と、伊兵衛に呼ばれた。
「引いてるぞ」
竿の先がしなっている。
あわてて引きあげた時、餌はもう取られてしまっていた。
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