寛政5(1793)年 徳兵衛 18歳

 弟が木の上から放って寄越すハゼの実を大きなかごに浮けながら、徳兵衛は悶々としていた。

 去年、長福寺から連れ戻される時、生徒たちの中で図抜けていた寅之助に、徳兵衛は「託す」と言った。その気持ちは嘘ではなかった。けれど、寅之助とはろくに話したこともないわけで、ずいぶん手前勝手なことを言ったと、あとになって恥ずかしくなった。寅之助が「世の中を変えたい」と思って学問をしているのでなければ、俺の頼みなど迷惑でしかない。

 豆田に屋敷をかまえる豪商・博多屋の長男。暮らしに不自由はないだろう。ろうそくがこのハゼの実から作られていることすら知らないのではないだろうか。今の世の中で苦しんでいないのなら、わざわざ「変えたい」とは思うまい。

 百姓の気持ちは結局、百姓にしかわからないのだ。できることなら、やはり俺自身が学問をして、何か百姓のためになることをしたい――とは言っても、親の許しがもらえなければどうにもならない。

 いや、俺はあの中で一番年長で、一番出来が悪かったのだ。志や親の許しがあっても、どうせ何もできないだろう。

 その時、背後から男の声がした。

「以前来た時も気にかかっていたんだが、あの時は訊けずじまいだった」

 誰かと話しているのだろう。

「そりゃ何の実かね?」

 と、そこまで聞いてようやく、徳兵衛は自分が話しかけられていることに気付いた。

 振り返ると、糸のように細い目をした、浪人風の男が立っていた。片手に杖をつき、旅慣れた雰囲気がある。

「食えるのかね?」

 と、男が言った。

 徳兵衛が何か言うより先に、

「おじちゃん、ハゼの実しらないの?」

 と、木の上の弟が言った。

「ハゼ?」

「これでろうそくつくるんだよ」

「ほう! この実がろうそくに変わるのか……こりゃ面白い」

 と言って、男は杖と刀をそこいらに投げ出し、わらじを脱いで、

「ちょいと手伝わせてくれ」

 と、器用に木にのぼり始めた。

「枝を折っちゃだめなんだよ」

 と、弟。

「わかった。気を付けよう」

 男と弟はもう打ち解けている様子だった。

「どちらからいらしたのですか?」

 と、徳兵衛が言った。

 男は取った実をしげしげと見つめながら、

「生まれは筑前だ。することがなくてな、ふらふらしておる」

 と言って笑った。

 徳兵衛は男の最初の言葉を思い出して、

「以前にも日田にいらしたことがあるのですか?」

 と尋ねた。

「うん。二度目だ。十年ぶりぐらいになるか。それにしても君は、そんなでかいなりをして、やけに丁寧な話し方をするじゃないか」

「あのね、兄ちゃんは学問ができるんだよ」

「ほう、学問か。それはいい」

 あいつ、余計なことを――と、徳兵衛は心の中でため息をつきながら、

「昔のことです。長福寺で教わっていたのですが、ついていけずに辞めました」

 と言った。

 親に辞めさせられた、とは言いたくなかった。

「そうか。それはもったいない」

「……」

 それから、男は取ったハゼの実を自分の鼻に近づけて、

「いい匂いだな。食えないのか? いや、ろうそくは食えないか」

 と、自問自答した。

「一応、あくを抜けば食えないこともありません」

「そうなの?」

 と、弟が驚いた声を上げた。

 ハゼは救荒作物でもある。徳兵衛はかつての飢饉で口にしたことがあった。

 飢饉を知らない弟に、徳兵衛は、

「鳥が食べるだろ。でも、うまくはない」

 と言った。

「どれどれ……」

 と、男がハゼの実を放りこんだ。一瞬のことで、止める間もなかった。

「うえっ、うええっ!」

 と、男は大げさに顔をゆがめ、弟はそれを見て大笑いした。

「あくを抜けばと言ったでしょう」

 と言いながら、徳兵衛は穏やかな気持ちになっていた。

 子どものような人だ、と思った。

 男は同じ仕草を繰り返してひとしきり弟を笑わせたあと、

「このハゼの木とやらは、このあたりでしか育たんのかな」

 と言った。

 日田を出たことのない徳兵衛には、

「さぁ……」

 としか言えなかった。

 男はハゼの実を徳兵衛のかごに放り投げながら、

「学問はもうやらないのか?」

 と言った。

 未練はある。

 けれど、できないものは仕方ない。

 どう答えようか迷っていると、

「書を読むばかりが学問でもあるまい」

 と男が言った。

 それは徳兵衛にとって、この時点では、意味不明な言葉でしかなかった。

 男はのちに、高橋伊兵衛と名乗った。

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