同年 寅之助

 金吾が帰郷した。

 前触れもなしに亀井塾が閉鎖になり、役人たちから追い立てられるようにして帰ってきたのだという。詳しい説明はなかったが、道々、亀井南冥先生が蟄居させられたという噂を耳にした。

 四極先生は寅之助と金吾の二人を前にして、

「お前たちにゃこの話はまだ早いと思ってたんだが、いい機会だ」

 と、言った。

 あぐらから右膝を立て、その膝に右肘を当てている。四極先生が特別に熱をこめて話す時の体勢であった。

「金吾、徳兵衛の奴が親に連れ戻されたって話は聞いたか?」

「はい」

「学問の出来不出来はともかく、志は立派なもんだったらしいな、寅之助」

「はい」

「じゃ、ここで問題だ。徳兵衛は正しかったか?」

「……?」

 問いの真意がわからず、寅之助は横目で金吾を見た。

 短い遊学の間に金吾は成長した――と、再会した瞬間、寅之助は感じていた。顔つきが違う。凛々しく、精悍になっている。

 ただ、今はその金吾も、いささか戸惑っている様子であった。

「もっとわかりやすくしようか。徳兵衛に、少なくともお前たちぐらいの学問の素養があったとしよう。このまま学問を続ければ大人物になれるかもしれない。それでも親の言いつけには従うべきか?」

 そういうことか。

 金吾も理解したようだと、寅之助は察知した。

「俺はしばらく口を挟まねえ。お前たち二人で討論してみな」

「はい」

 と、二人は声を揃えた。

 そして、金吾が先手を取った。

「親の言いつけには従うべきだ」

 声の出し方もかなり強くなっていた。

 気圧されてなるものかと、寅之助は声を張った。

「俺はそうは思わない」

「何故だ?」

「飢饉で人が死なない世の中を作りたいと、徳兵衛は言った。学問の素養があるなら、それは実現して、多くの人々を救うかもしれない。いっときは親を悲しませても、徳兵衛の功績は回り回って、親を助けることにもなり得る」

「それは可能性に過ぎない」

 と、金吾は容赦なく言い放った。一歩も退かないという気迫。以前の金吾なら考えられない鋭さである。

「徳兵衛が邁進したところで、人々や親の助けになるとは限らない。それどころか、子どもが親に逆らうことは、世の中が乱れる原因になる」

「徳兵衛一人が親に逆らって、何故世の中が乱れるんだ」

「寅之助、お前は『孝經』から何も学んでいないのか」

「……」

 落ち着け。これは挑発だ。乗せられては向こうの思う壺。

「問いに問いで返すのが亀井流か?」

 と、寅之助は挑発で応じた。

 金吾は「やるな」という目をしてみせると、落ち着いた声で、

「王が臣を従え、師が弟子を教え、親が子を育てる。上下の間柄は秩序の根幹だ。例外を許せば全体が崩れかねない」

 と言った。さらに、

「考えてもみろ。ある戦で、将を中心に統率が取れている軍と、兵たちが勝手ばらばらに動く軍があったとする。両者がぶつかったら勝つのはどちらだ?」

 と、続けた。

「その戦なら、前者が勝つ」

 と、寅之助は答えた。

 金吾が先刻名を出した『孝経』をはじめ、中国の古典は秩序を重んじるものが多い。もしこの討論が書物への忠誠を試すものなら、すでに金吾の勝ちだ。

 しかし、四極先生は書物の教えが物事の道理であるかのような言い方は一度もしたことがない。いつも自分の頭で考えさせる。

 寅之助は相手の出した例えに乗ることにした。

「統率は同程度だとして、ごく一般的な将が率いる軍と、より優れた将が率いる軍がぶつかったらどうなる?」

「そんなことを考えて意味があるのか?」

「いいから、どっちだ?」

「後者だ」

「では、ごく一般的な将と、より愚かな将なら?」

「……」

「将が愚かで、言いなりになれば負ける、死ぬとわかっていても、兵たちは将に従うべきか?」

「お前は、徳兵衛の親が愚かだと言っているのか?」

「そうじゃない」

 と、寅之助は徳兵衛の親を見ているだけに、慌てて答えたが、少し考えて、

「いや、そうかもしれない」

 と、訂正した。

「俺は、上に立っている者が優れているとは限らないと言っているんだ」

「そんな風に、兵が将を疑っている状態を、統率が取れていないというんだ」

「よし、そこまで」

 と、四極先生が満足げに言った。

 寅之助は思わず、ふう、と小さく息をついた。

 四極先生の指導の一環として、金吾と二人で討論をしたことは過去にも何度かあったが、以前とは雲泥の差だった。

 討論の中身で負けたとは思わない。けれど、気迫では押され気味だった。

 もしこれが聴衆を集めての討論で、入れ札(投票)で勝ち負けを決めるものなら、軍配は金吾にあがるような気がする。

「ちょいと話は飛ぶが、二人とも、『忠臣蔵』は知ってるかい」

『忠臣蔵』?

 虚を突かれつつ、二人は口々に「はい」と答えた。

「今から百年近く前のことだな。赤穂事件が起こった当時、荻生徂徠おぎゅうそらいって学者がいた。討ち入りをした浪士たちの処分をどうするかって話し合いで、忠義の心あっぱれ、助けてやろうって声も多い中、徂徠は切腹論を主張した。根拠は色々とあるんだが、要は、主君のために命を捨てて戦ったっていう美談をどう見るかって話だな」

 上下の身分を重んじるのが「朱子学派」、朱子学派に懐疑的なのが「徂徠学派」だと、四極先生は説明した。

「まさにお前らがさっきやったような論争を、朱子学派と徂徠学派の間で長年やりあってる。俺はどっちでもねえんだが、上に立つ者、つまり幕府としちゃ朱子学の方がありがたい。二年前、幕府直轄の昌平坂学問所では、朱子学以外の学問が禁じられた。徂徠学派の立場はいま、かつてなく危うい。そんで、亀井南冥は徂徠学派だった」

 それから、四極先生は金吾を見て、

「もっとも、南冥は弟子を自分の色に染めようとはしなかったようだがな」

 と言った。

 金吾は、

「南冥先生のお人柄は、四極先生に少し似ています。懐の深いところが」

 と言った。

 四極は笑って、

「そうかい。世辞も上手くなったな」

 と言った。

 寅之助は、金吾が一足先に大人になってしまったような気がして、少しばかりの寂しさを感じていた。一方で、遊学への憧れはより一層強くなっていた。

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