同年 三郎右衛門 42歳

 かつては自分の書物が世に出まわることを夢見たこともある。

 とは言え、いたずらに不安をあおるようなことを書き、しかも書店が出版に応じてくれないからと自ら版木を彫ってまで、書物を出したいとは思わない。

 林子平はやししへいという男が『海国兵談』という本を自力で出版して禁固刑に処されたという噂は、三郎右衛門たち商人にとって笑い話でしかなかった。

 兵器を開発し、戦術を研究し、沿岸の守りを固めよと、林は『海国兵談』の中で語ったという。異国の脅威に備えよというのだ。

 何を馬鹿なことを、と世間は一笑に付した。三郎右衛門も同じであった。

 陸続きなら領土争いにもなろう。けれど、この日本は島国である。わざわざ海を越えてきて戦を仕掛けるなど、割に合うとは思えない。事実、もう何百年もの間、異国からの攻撃は受けていないというではないか。

 妄言を吐いてまで名を売りたかったのかと思うと、三郎右衛門は林という男が哀れにも思えた。


 寅之助は近頃、良い師がついてくれたとかで、猛烈な勢いで学問をしている。この調子なら、期限までに書物の一冊でも出す人物になるかもしれない。

 その折には、やはり世のため人のためになる書物を書いてほしいと思う。林のように、世間の笑いものになることだけは決してしないでほしい。

 寅之助は一時期より体も丈夫になったようだ。

「額のほくろの色がいくぶんか薄くなったんじゃないか」

 と、先日訪ねてきた平八が言った。

 毎日息子と顔を合わせている三郎右衛門は言われるまで気づかなかったが、注意して見てみると、確かにそう感じられた。

 忌まわしい定めが消えかかっているのかもしれない――と、期待するなという方が無理であろう。

 昨年の夏まで、三郎右衛門は実のところ、悔いていた。

 幼い頃はいつも表を駆けまわっていた寅之助が、こちらへ引き取ってきてすぐ、病気がちになった。読み書きを教えれば覚えは早かったが、少しも楽しそうではなかった。張りあいが出るようにとしきりに褒めても、のれんに腕押しであった。

 体が弱くなったのは、定めというより、無理やり学問をさせているせいではないか。こんなことなら、ずっと兄のもとで遊ばせてやった方がまだ幸せだったのではないか――と、寅之助を長福寺に通わせ始めてからも、三郎右衛門はずっと気を揉んでいた。

 それが今は毎日いきいきと学問をしているのである。喜びはひとしおであった。


 嬉しいことは重なるもので、次男・久兵衛きゅうべえも無事に三歳まで育った。博多屋の跡取りとして立派に育つようにと、亡き父の名を継がせた。

 やがてはこの久兵衛が博多屋の当主となり、寅之助は定めを乗りこえて、兄弟励ましあいながら、それぞれの道で身を立てる――そんな明るい未来を思い描きながら、三郎右衛門はふと、

「安利の縁談を探してやらねばな」

 とつぶやいた。

 それを聞いたユイは、

「まだ九つですよ。いくらなんでも早いでしょう」

 と言って笑った。


『海国兵談』が発禁処分となり、版木も取り上げられた林子平は、

「親もなし、妻なし、子なし、はん木なし、かねもなければ、死にたくもなし」

 と自嘲して「無六斎」を名乗り、失意のうちに翌年、病死する。

 林が死んだ寛政五年は黒船来航の六十年前。幕藩体制に経済的な行き詰まりが見え始めていたとは言え、のちの乱世に比べれば、まだまだ平和な世の中であった。

 林は姉が先代藩主の側室となったことから、生活にはあまり困らず、自由に行動できたという。長崎をたびたび訪れ、オランダ商館長から海外の情勢を聞き、『海国兵談』を著すに至った。

 働きもせずにふらふらしている者はろくなことを考えない――と、この時点では誰もが思った。

 三郎右衛門を含め、林を笑ったほとんどの人々は、彼の警告が正しかったことを知らないまま生涯を終えることとなる。

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