同年 寅之助 11歳

 やけに体が軽い。

 しかもこの好調が今日で四日も続いている。覚えている限り、こんなことは今までになかった。

 金吾の遊学に同行できなかった悔しさから、自分なりに体を鍛えようと思い立ち、蔵の奥で眠っていた木刀をひっぱり出してきて、毎日素振りをしている。その効果がさっそくあらわれているのかもしれない。

 このまま体が頑健になれば、また遊学の話が持ちあがった時、今度はきっと許してもらえるだろう。

 四極先生の話によれば、亀井塾を主宰する亀井南冥かめいなんめいという人は「筑に南冥あり」とうたわれる学者で、志賀島で金印が発見された時には誰より早くその由来を説明してみせたという。

「ありゃまぎれもなく天才だ」

 と、四極先生は言う。

 遊学への憧れはつのる。

 亀井南冥先生がわずか二十歳にして師の著書の序文を任されたという話もまた、寅之助の胸を打った。

 若輩者でも認められることはある。自分も何かの形でこの世に名を残すことができるかもしれない。

 残り八年。遊んでいる暇はない。

 体の好調にも助けられ、寅之助はかつてない勢いで学業に邁進していった。

 近頃は四極先生の指示で、自ら漢詩を作ることにも挑戦している。課題は「七言絶句」を一日一首。

 漢詩というものが非常に厳しい制約の中で作られているということを、寅之助は初めて知った。

 ただ七文字を四行並べればいいというものではない。七文字は「二字・二字・三字」の組み合わせでなければならず、韻の踏み方にも細かな規則がある。こんながんじがらめの中で、古今の詩人たちはよく多彩な詩が詠めるものだと感心した。

 はじめは規則の中で形にするのがやっとだったが、やがて慣れた。すると今度は題材探しに苦労するようになった。思い立った時に詠めばいいのなら楽だが、一日一首なのである。寅之助は毎日、必死に捻り出した。

 この訓練は、寅之助の観察眼を鋭く磨きあげた。


 ある日、法幢上人の句読を受けている時のことである。

 徳兵衛の両親が訪ねてきた。

 その父親は開口一番、

「徳兵衛、もう十分だろ」

 と言った。

 当人は無視を決めこんでいるらしく、じっと書物に目を注いでいる。

 生徒たちの目線は忙しく徳兵衛と両親との間を行き来する。

 法幢上人は普段と変わらない低い声で、

「今は講義の最中です。あとにしてくださいませんか」

 と言った。

「いいや、そうはいきません」

 と、徳兵衛の父親は譲らなかった。

 母親ははらはらした様子で夫を見ている。

 小柄な夫婦であった。あの二人からよく徳兵衛のような巨躯が生まれたものだ。

「半年の約束のはずだぞ。もう一年になる。ここまで見逃してやっただけでもありがたいと思え」

「……」

 徳兵衛は動かない。

「うちは百姓なんだ。せいぜい読み書きができりゃ十分だろ。さぁ、帰るぞ」

「俺は帰らない」

 と、微動だにせず、徳兵衛が言った。岩が声を発したようであった。

「いい加減にしろ!」

 と、父親が怒鳴った。

「お坊様、半年って約束は、あんたも聞いてたでしょう。どうしてこいつを帰してくださらなかったんです」

「徳兵衛くんの求めに応じたまでです。学問に終わりはありません」

 法幢上人はすべて承知の上で、徳兵衛をかくまっていたのである。

 このとき寅之助は、無味乾燥な教え方しかできないと思っていた上人の、深い一面を垣間見た。

「じゃあお坊様、あんたは――」

 と、荒い声を出す父親に、母親は一言、

「ちょっと」

 とだけたしなめた。

 父親はそれにかまわず、

「――親の言いつけに逆らってもいいって言うんですか。そういう教え方をしてんですかここは!」

 と、いまにもかみつかんばかりであった。

 生徒たちはすっかり委縮して、自分の膝に目を落としている。

 父親は床を踏み鳴らして徳兵衛の背後まで歩いていき、襟の後ろをつかんで、無理やり立たせた。

 上背こそ小柄とは言え、その二の腕が見事に引きしまっているのを、寅之助は見た。力仕事をしてきた男の腕だ。

 徳兵衛はその体勢のまま、

「寅之助」

 と言った。

 自分の名前が呼ばれたことに、寅之助は一瞬、気づかなかった。

「お前はまだ生まれたばかりだったはずだから、覚えてはいないだろう。昔、ひどい飢饉があったんだ。春になっても寒く、雨が降り続いて、稲が育たなかった」

 飢饉があったということは、秋風庵にいた頃、平八から聞いていた。しかし、それきり忘れていた。

「俺は、こんなのおかしいと思った。飢饉があったことじゃない。百姓ばっかり死ぬことがだ。米を作ってるのは百姓なのに、どうして百姓が飢え死にしなきゃならないんだ」

 徳兵衛がこれほど長く言葉を話すのを、寅之助はもちろん、その場にいた全員が初めて聞いた。

 父親は、襟の後ろをつかんだまま、その場から動かず、唇をかんでいた。

「俺は世の中を変えたい。世の中を変えるには学問がいる」

「だからってお前が学問をしたところでどうにもならねえだろう」

 と、父親が言った。

「だから寅之助、お前が頑張ってくれ」

 と、徳兵衛が言った。

「俺は覚えも悪かったし、やっぱり百姓だ。悔しいけど親父の言う通りだ。あとはお前に託す」

 寅之助と徳兵衛は、決して親しかったわけではない。

 生徒たちの間では、不出来な徳兵衛を嘲る風潮があった。寅之助は陰口こそ叩かないまでも、率直に言って、ほとんど眼中になかった。

 しかし徳兵衛の方では、六つも年下の寅之助に対し、妬むどころか、尊敬の念を抱いていたのだった。

「お前はきっと偉くなる。世の中を変えてくれ。飢饉が来ても人が死なないようにしてくれ」

「さぁ、もう行くぞ」

 と、父親が徳兵衛の襟から手を離しながら言った。

 徳兵衛は法幢上人に深々と頭を下げると、父親に付き従って出ていった。

 その大きな背中を、寅之助はただ見送ることしかできなかった。

 一言も発せなかったことが、心の中にしこりとして残った。

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