寛政4(1792)年 安利 9歳
昨年の夏から、兄の様子が一変した。
以前はいつでも具合が悪そうにしていたのが、今は良い日と悪い日とがある。
そして、具合の良し悪しにかからわず、寝る間も惜しんで学問をしている。
以前と打って変わって意欲的になったことを、父は喜んでいる。
安利にとっても嬉しいことではあったが、同時に不安でもあった。いつか無理が祟って、倒れてしまうのではないだろうか。
「あの人は本当に何でも知ってる」
四極先生という人のことを、兄はよく嬉しそうに話した。
長福寺に通っている生徒たちの中では、兄の他に金吾も四極先生に見出され、指導を受けていたという。
その金吾は今年に入ってすぐ、四極先生の紹介状を携え、筑前の「亀井塾」を目指して旅立った。遠出して学ぶことを「遊学」というらしい。
出発の日には大勢の見送りが集まった。日頃表情をあまり変えない金吾の父・長作先生の、不安と期待が入り混じった顔を、安利はよく覚えている。
当然、兄も行きたがった。四極先生としては行かせたい考えだったという。けれど父が、体の弱さを理由に許可しなかった。
兄は憤り、激しく抗議したが、父は頑として譲らず、安利は内心ほっとしていた。昨年の暮れにも半月以上、熱を出して寝こんでいる。見知らぬ地で学ぶことはおろか、そこまで無事たどり着くこともできないような気がする。
父も、安利も、寅之助の邪魔をしたいわけではない。心から応援している。
学問に対して熱心になったのならなおさら、丈夫で、長く生きられる体にしてあげたい。無慈悲な定めを、変えてあげたい。
安利は大超寺に毎日通い、祈願した。
それは、仏様への祈りでありながら、密かに、律師への、隠している手段があるなら教えてほしいという願いでもあった。
雨の日も風の日も通った。
念じた。
苦痛ではなかった。
兄の病弱さの原因がスズメバチではなかったとしても、あの日、自分をかばってくれたという事実は動かない。
恩があり、縁もある。
寅之助のために大超寺へ通うことは、安利にとって、生きがいのようなものになっていた。
そして、桜のつぼみがほころびはじめた頃、豪潮律師が安利を部屋に呼んだ。
「私はまもなく、京へ戻らねばなりません」
と、律師は言った。
「寅之助くんはずいぶん熱心に学問をしているそうですね。彼の力になってあげたいとは、私も思っています」
「はい」
と返事だけして、安利は律師が話すのを待つ。
律師は何か考えこむように目を閉じた。ややあって、目を閉じたまま言った。
「定めを変える方法がないわけではありません」
やはり。
「本当ですか?」
「はい」
「教えてください。どうすればよいのですか?」
律師は目を開いて、
「祈りなさい」
と言った。
「え?」
「お兄さんのことを心から思って、体を丈夫にしてくれるよう、毎日仏様にお祈りをしなさい。そうすれば、定めは変わるかもしれません」
何を――言っているのだろう。
祈ることなら今でもしている。
何か特別な方法があるのだと期待していた安利は、ひどく落胆した。
「今までとは違います」
と、安利の心中を見透かしたように、律師が言った。
「どういうことですか?」
「人の祈りは、そう易々とは届かないようになっています。考えてもごらんなさい。川を一匹の魚が泳いでいるとします。ある男が、それを釣りたいと思った。ところが、向こう側にいる男も、その魚を釣りたいと思った。二人が同じように祈っても、実際に釣ることができるのはどちらか片方だけです。人の願い事は、平等には叶わないようになっているのです。故に、仏様は滅多なことではお力を貸してくださいません」
だったら祈っても無駄ではないか、などと安利は言わない。静かに律師の話を聞いている。
「今から私が特別な儀式をして、寅之助くんに対してだけ、祈りが届きやすいようにしてあげます」
「そんなことが、できるのですか」
「はい。この方法は俗に〝
「……」
「どうして早くやってくれなかったのか、と思っているでしょう。それは、逆に寿命を縮めることにもなりかねないからです」
「なぜ、ですか?」
「良い祈りだけが届くようにはできないのです。標をつければ、悪い祈り――つまり、恨みや呪いにも影響されやすくなります。極端なことを言えば、誰かに〝死んでしまえ〟と一度思われただけで、命を落とすこともあり得ます」
「……」
「それでも、良い祈りのほうが強ければ、悪い祈りの影響は打ち消すことができます。毎日欠かさず通ってくるあなたを見て、こんな妹さんの支えがあるなら賭けてみる価値はあると、私は考えました。ただ――」
律師は優しい目をしている。
「――そんな危険なことはさせられないと言うのなら、標をつけることはしません。私がここを発つまで、あと三日あります。よく考えて、どうするか決めてください」
「しるべをつけてください」
と、安利は即答した。
「待ってください。もっとゆっくり考えてから……」
「大丈夫です。しるべをつけてください。兄は、私が守ります」
と、安利は迷いなく言った。
十九までという定めと、病気がちの体のせいで、一時期はふさぎこんでいたが、近頃は生き生きとしている。
もともと朗らかで、いつも友達の輪の中心にいた。
大人たちにも一目置かれている。
あの兄が、人の恨みなど買うわけがない。
そう確信する安利は、やはり子どもなのである。
どれほど利発でも、まだ人生を知らない。知りようがない。
「定めを変えるには、それしかないのでしょう? どうか、お願いします」
と、安利は小さな頭をさげた。
「……わかりました」
と、律師は言った。
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