翌日 寅之助
「よぅ」
長福寺の門を入ったところで寅之助を待ちかまえていたのは、昨日の講義に突然乗り込んできた男であった。この陽気に、相変わらず夜具をまとっている。
「ちょいとこっちへ来な」
と、男はうすら笑いを浮かべ、指先だけで手招きをした。
傍目には人さらいにしか見えまい……が、寅之助はその時、男がやけに澄んだ目をしていることに気づいた。
「今から講義なのです」
「そっちに行きてえのか?」
返答に詰まった。
行きたいかと訊かれると、行きたいわけではない。
「……行かねばなりません」
と、寅之助は正直に答えて、立ち去ろうとした。
すると男は、
「お前、この前の講義、あくびをかみ殺してばかりいただろう」
と言った。
寅之助は思わず立ち止まり、振り向いた。
「後ろ姿でも気配でわかるもんさ」
と、男は耳の裏をぽりぽりかきながら言った。
寅之助は頬が赤らむのを感じ、弁解しようとした。
「恥ずかしながら、体が弱く、眠りも浅いのです。それで……」
「違うな」
と、男がさえぎった。
「お前は学問をつまらねえと思ってやがる。意味もわからず、読み方ばっか覚えて何になるんだってな。そうだろ?」
その通りだった。
しかし、認めてよいものかわからず、寅之助は黙っていた。
「俺は
「博多屋の寅之助と申します」
「いいか、寅之助。『相鼠』の〝止〟ってのは〝節度〟のこと。そんで、〝何をか為さんや〟と〝何をか俟たんや〟は、ほとんど同じ意味だ。要するに、一段目と二段目は、〝礼儀〟と〝節度〟を大事にしろってことを言ってんのさ」
前触れもなく始まった講義に、寅之助は劇的に惹きこまれた。
「〝禮〟ってのは〝礼節〟だ。礼儀と節度だな。つまり、三段目は前二段を繰り返してるだけで、新しいことは何も言ってねえ。ただ、最後の表現だけが違う」
「胡ぞ遄やかに死せざる」
「そうだ」
この部分の意味は、何となくわかるし、気に入っていた。
〝どうしてさっさと死なないのだろう〟。
自分に向けて、寅之助はしばしばつぶやいていた。
「礼節を欠いた奴は、〝鼠以下の存在“どころか〝さっさと死んだ方がいい〟とまで言ってんだな。役人たちの腐敗ぶりがよほど腹に据えかねたんだろうよ」
役人の腐敗。
思い当たることがあった。
「『
「お、知ってんのか?」
「昔、高橋伊兵衛さんという方が、軍記物の話をいろいろと聞かせてくださいました」
伊兵衛は、寅之助がスズメバチに刺され、病気がちになって少し経った頃、ふらりとまたどこかへ流れていったという。元気にしているだろうか。
「あれは腐敗しきった王朝と役人たちを倒すために志ある男たちが立ち上がるって話だったよな。そう、『相鼠』を書いた奴も、『水滸伝』の男たちも、同じような怒りを抱えてる。歴史は繰り返すってわけだ」
面白い。
寅之助はこの時初めて、学問を「面白い」と感じた。
音の羅列に過ぎなかった漢詩の意味が明らかになり、自分の中の知識とつながる。
今までは、底の抜けた桶で井戸の水を汲みあげようとしているようなものだった。やれと言われるままにやっているだけ。徒労でしかなかった。
この人が教えてくれるなら、着実に水は汲みあがる。自分の中に溜まっていく。
どれほど学んだところで、寿命が伸びるわけではない。それでも、自分が楽しむために学ぶのも悪くないと思い始めていた。
寅之助が興奮している気配を察してか、四極は口元をニヤつかせながら言った。
「もう一ついいことを教えてやろう。『孝経』はもう読んだか?」
「いえ、まだです」
「そうか。『孝経』の『開宗明義』にはこう書かれてる」
と言って、四極は懐からしわだらけの紙を取り出し、開いた。
仲尼間居。曾子侍坐。子曰。參先王有至徳要道。以順天下。民用和睦。上下無怨。女知之乎。曾子避席曰。參不敏。何足以知之。子曰。夫孝徳之本也。教之所由生也。復坐。吾語女。身體髪膚。受之父母。不敢毀傷。孝之始也。立身行道。揚名於後世。以顕父母。孝之終也。夫孝。始於事親。中於事君。終於立身。大雅云。無念爾祖。聿修厥徳。
「読めるか?」
「いいえ」
「だろうな。この『開宗明義』は要するに、目上の者を敬えってことを言ってる」
言われてみれば、「父母」や「孝」の字がある。
「以上だ」
はじめは四極の言わんとしていることがわからず、寅之助は呆然と紙を眺めていたが、やがて気づき、四極の目を見た。
「どうだ? 句読を済ませてるかそうでないかじゃ、意味を知って感じることの〝厚み〟がまるで違うだろ」
「はい」
「お前らが学問に使ってる書物は大抵、要点をまとめちまえば大したことは書いてない。要点だけ次々教えちまうことだってできる。けど、それじゃ身に付かねえのさ。句読は退屈で時間がかかるもんだが、時間をかけることに句読の意味がある。ただ、気を付けなきゃならねえのは――」
と言いながら、四極は紙を乱暴にたたんで懐に突っこんだ。
「――どのぐらい時間をかけるか、だ。個人差ってやつを考えなきゃならねえ。足並みを揃える必要はねえのさ。寅之助、お前みたいに物覚えのいい奴はどんどん先に進んじまった方がいい」
「では、急いで学問を修めれば――」
寅之助は体が熱くなるのを感じている。
こんな感覚は伊兵衛さんから源頼光の話を初めて聞いた時以来だ。
「――若いうちに、何か事を為すことができますか」
「急ぐこともねえと思うが、まぁ、そうだな。見る目のあるお偉いさんに見つけてもらえりゃ道も開けるだろう。俺もそれなりにつてはある。紹介してやらんこともないぜ」
「ぜひ、お願い致します」
「焦んなって。お前はまだ見こみがあるに過ぎねえ」
と、四極は寅之助の頭を荒っぽくなでた。
その手はずいぶん汚れていたが、嫌だとは少しも思わなかった。
「当面、法幢たちの講義も受けろ。すぐ辞めるわけにもいかねえだろうしな。そんで、俺んとこにも来い。今はここの講堂に寝泊まりしてる」
「いつお伺いすれば」
「いつでもいい。お前の体力次第だ」
体力と聞いて、にわかに不安になった。
その顔色を悟られないよう、寅之助は素早く頭をさげ、礼を述べた。
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