翌日 寅之助 10歳

 相鼠有皮

 人而無儀

 人而無儀

 不死何為


『詩経・国風』の一部、『相鼠』の冒頭である。

 何度も読んで、寅之助はもう飽き飽きしている。

「では、読んでみよ、金吾」

 と、椋野元俊むくのげんしゅん先生が言った。

 元俊先生は法幢上人が務めで講義ができない時、代理をしている青年である。

「はい」

 と、金吾は居住まいを正し、「相鼠」を声に出して読みあげた。


 鼠を相るに皮有り

 人にして儀無し

 人にして儀無くんば

 死せずして何を為さんや


しつ、一つ」

 と、元俊先生が厳かに言った。

「何を為さんや、ではなく、何をか為さんや、だ」

「ありがとうございます」

 と、金吾は頭をさげた。

 漢文を正しく読むこと。それだけが「句読」の目的であった。一音たりとて間違いは許されないため、ほぼ丸暗記するしかない。

 意味は一切教わらない。ひたすら読み方だけを習う。この勉強が、これから何冊も続くのだ。

「では、次の四行」


 相鼠有齒

 人而無止

 人而無止

 不死何俟


「寅之助、読んでみよ」

「はい」


 鼠を相るに齒有り

 人にして止無し

 人にして止無くんば

 死せずして何をか俟たんや


「失なし。さすだな」

 と、元俊先生が言った。

 ほめられたが、寅之助は軽く会釈しただけであった。

 正しく読める――もとい、暗記ができているからといって、それが何になろう。

 寅之助は「止」や「俟たんや」の意味が知りたかった。けれど、質問をしても叱られるだけだ。決して教えてはもらえない。

 正確に、何度も何度も繰り返し読めば、自然と意味はわかるようになるのだと、元俊先生や法幢上人は言う。

 寅之助はもう百回は「相鼠」を読んでいる。それでも意味は見つからない。

 そもそも、意味を教えてもらえない理由がわからない。

 伊兵衛さんに軍記物の話を聞いている時の方がよほど自分のためになった――と、寅之助は昔を懐かしむ。

「では、最後の四行を、徳兵衛とくべえ

「はい」

 徳兵衛は図体の大きな少年であった。肩が広く、胸が厚い。正座がいかにも窮屈そうだ。豆田の町の南、三隈川のそばに広い田畑を持つ百姓の息子で、今はこの長福寺に泊まり込んで学んでいるという。


 相鼠有體

 人而無禮

 人而無禮

 胡不遄死


「読んでみよ」

「……」

 徳兵衛は、喉の奥で小さく咳払いをして、読み始めた。


 鼠を相るに體有り

 人にして……


 つかえた。「禮」の字が読めないのだ。

 嫌な空気が流れる。

 ちらりと横目で見ると、徳兵衛は冷や汗をかき、必死に続きを思い出そうとしている。

「人にして……」

 元俊先生は助け舟を出す代わりに一言、

「寅之助」

 と言った。

 続きを読めということだ。


 人にして禮無し

 人にして禮無くんば

 胡ぞ遄やかに死せざらんや


「よろしい」

 と、元俊先生が言った。

 今さら優越感など感じない。寅之助の疑問で埋め尽くされている。

「禮」の意味は何か? 「胡ぞ」は?

 ただ記憶することに、何の意味があるのか。これが「学問」なのか。父上は幼い頃、こんなことを、どうしてもやりたかったというのか。

「徳兵衛」

 と、元俊先生の鋭い声が飛んだ。

「……はい」

 と、徳兵衛が消えいるような声で返事をした。

「お前、歳はいくつになる」

「十六です」

「お前より五つも六つも下の子どもたちがすらすらと読めているのだぞ。恥ずかしいと思わないのか」

「……申し訳ありません」

 現在の生徒は寅之助たちを含め七人。徳兵衛は一番年長であるのに、一番覚えが悪い。大きな体のせいで、よけい不憫に見えた。

「私に謝っても仕方ないだろう。よくよく復習をしておけ」

「はい」

「では次、『河廣』を読む」

『河廣』と聞いた瞬間、夕立のように、疑問の数々が寅之助の頭に降ってくる。

「一葦」とは何か。

「跂」ったのはなぜか。

「刀」を何に「容れ」ようとしているのか。

「朝を崇」うとは何を指すのか。

 もしや、と寅之助は思った。

 元俊先生も、意味まではわかっていないのではないだろうか?

「何ですかあなたは!」

 と元俊先生が叫び、寅之助はいま疑ったのが知られたのかと思って、飛びあがりそうになった。

 生徒たちは元俊の目線を追って、一斉に背後を振り返った。

 寅之助もそれにならって振り返ると、そこには一人の浮浪者――いや、異常者が立っていた。

 一見すると老人のようだが、四十の前と言われればそのようにも見える。髪は伸び放題でフケだらけ。彫りの深い顔に、ぎょろりとした大きな目。汚れなのか日焼けなのか、真っ黒な脚。何より異様なのは、この夏の盛りに、綿入れの夜具を蓑のようにまとっていることである。

「やぁ、俺のことは気にせんで、続けてくれ」

 と、男は鷹揚に言った。

「何者かと尋ねているのです」

「そうおっかねえ顔すんなって。法幢の奴に訊けばわかる」

 法幢上人を、呼び捨てにした。

 生徒たちは無言でどよめき、元俊先生は眉間にしわを寄せた。

「邪魔しようってんじゃねえんだ。あいつが私塾みてえなことしてやがるってんで、ちょいと気になってな」

 と、男はぼりぼりと髪を掻いた。遠目にも、フケが舞うのが見えた。

「ほれ、続けてくれ。何なら見学料払うぜ」

 法幢上人の知り合いらしいということで、元俊先生も追い返すわけにはいかなくなったのだろう。不服そうに、『河廣』の句読を再開した。

 講義が終わった時、男はいつの間にか姿を消していた。

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