寛政3年(1791) 安利 8歳

 主屋を出ると外の世界は夏の日差しに満ちていて、安利は思わず目を細めた。打ち水の跡はもうすっかり乾いている。

 濃い影を作っている土蔵を、安利は心配そうに見あげた。兄は今日もあの二階で寝っころがっている。

 長福寺での講義がない日はきまってこの調子だ。

 学業は順調のようで、父もよく兄をほめるし、近所の人が噂しているのも何度か聞いたことがある。

 けれど、兄はひどくつまらなそうに学問をしている。少なくとも安利の目にはそう見えた。

 病気のせいでもあるのだろう。昔、源頼光になりきって駆けまわっていた頃とは別人のように、一年中青白い顔をしている。

 三年前のスズメバチが元凶だと、安利は密かに信じている。

 金吾の父・長作先生に確かめたところでは、もうあの毒は完全に抜けていて、最近病気がちなこととは関係ないと言われた。二度訊いて、二度とも同じ答え方をされた。しかし、その説明はきっと安利を気づかってのものにちがいない。

 明らかに、あの日を境に、兄の様子が変わった。

 親に命じられたことはする。覚えろと言われたことは次々に覚える。しかし、自分から何かしようという気配がまるでない。遊びに出かけていくこともないし、誰かが訪ねてきても具合が悪いと言って追い返してしまう。近頃は声をかけてくれる友達もずいぶん減った。

 病気のせいで、気がふさいでいるのだ。つまり、元をたどれば、安利のせいだ。


 埃が舞う中、きしむ階段をのぼっていくと、寅之助はまるで罪人のように、むしろを敷いて横になっていた。組んだ両手を枕にして、ぼんやりと天井を見つめている。

「兄上」

 兄は返事をしない。見向きもしない。

 いつものことだが、いつまで経っても慣れない。

 責められている、と、安利は感じる。

「兄上、読み書きを教えてください」

「なんだいきなり」

 と、寅之助は寝ころんだまま、目線だけを安利に向けて言った。

「父上に駄目だと言われただろう。女が知恵などつけたら嫁に行けなくなる」

「では、兄上も、嫁に知恵があったら嫌ですか」

「俺は嫁などもらわん」

「どうして?」

「いらんからだ」

 と、寅之助は少し強い声で言った。

 安利はひるみながらも、

「読み書きを教えてください」

 と、食いさがった。

 実のところ、学問がしたいわけではない。兄と話す口実が欲しいのだ。

 あの日、ハチからかばってもらったことについて、感謝も謝罪も伝えられていない。何も言えないまま過ごしてきてしまった。

 せめて関わり続けることが、謝意を表す唯一の方法だと思っている。

「兄上」

「しつこいぞ」

 と言いながら、寅之助はごろりと安利に背を向けた。

「父上が駄目だというのだから駄目だ」

「ですから、内緒で」

「駄目だ。ばれたら俺も叱られる」

「……」

 そう言われては、安利も言葉が出ない。

 蔵の二階は暗く、涼しい。小さな格子窓から差し込んだ強い光が、寅之助と安利の間の床を照らしている。

「外はいい天気だぞ、安利。遊びにでも行ってこい」

「それなら、兄上も一緒に」

「今日は体の調子が良くない」

「いつもそうおっしゃいます」

「本当にそうなんだから仕方ないだろう」

「調子のいい日はないのですか?」

「そんな日はない」

 そして、寅之助は顔をぐるりと安利の方へ向け、

「俺は死ぬまで調子が悪いんだ」

 と言った。

 その目はあまりに暗く、月のない夜のようで、安利の背中に寒気が走った。

「死ぬ、などと」

 安利が口ごもっているうちに、寅之助はまた向こうを向いてしまった。

 スズメバチの毒。なんておそろしいんだろう。

 本当なら、私がああなるはずだった。私がああなるべきだった。

 兄上は、学問もできるし、男だ。体さえ丈夫なら、きっと立派な跡取りになれるはずなのに。

 その時、

「おい、寅之助! いるか!」

 と、階下から声が響いた。

 続いて、階段を駆け上がってくる音がして、

「なんだ、いるじゃないか」

 と、金吾が顔を出した。

「いるなら返事ぐらいしろよ」

「静かにしてくれ。今日は体調が悪いんだ」

 と、寅之助は大儀そうに体を起こし、むしろの上にあぐらをかいた。

「今日も、だろ。まぁ聞け、寅之助。今日はいいものを持ってきた」

 と、金吾は懐から布の包みを取り出し、開いた。

 中から現れたのは、小指ほどの大きさの、ごぼうの切れ端のようなものだった。

「にんじん(高麗人参)だ。肥後の倉重湊くらしげみなとというお医者様が昨日うちにいらしてな、これから太宰府へお参りに行かれるそうなんだが、お前のことを相談したら、この薬を分けてくださったんだ」

「また余計なことを」

「またいじけたことを。〝病は気から〟だぞ。薬を飲む時は、これで病を治すんだという、気合いが大事なんだ」

 出不精になった兄に、親切にしてくれる友達は、今やこの金吾ぐらいしかいない。

「わざわざ悪いな。じゃあ、その薬の礼に、一つ頼みがあるんだが」

「礼に、頼み? ふつう逆じゃないのか? まぁいい、言ってみろ」

「妹に読み書きを教えてやってくれ」

「俺が?」

 と、金吾はかすかに泳ぐ目で、安利を見た。

 寅之助と金吾は共に長福寺で学んでいる。

「なんで俺が。兄貴のお前が教えればいいだろう」

「あいにく俺は具合が悪い」

「だから、この薬を試してみろって」

「金吾、無理はしなくていい」

「無理? 俺が何の無理をしてるっていうんだよ」

「お前は俺が心配で来ているわけじゃない。目当ては他にあるんだろう」


 早熟な兄の影響か、安利も年齢の割には、物事を筋道立てて考えることのできる子どもである。

 とは言え、このとき、兄と金吾が話していることを理解するには、さすがに幼すぎた。

 安利にとって金吾は、兄の大切な友達であって、それ以上でも以下でもなかった。


「そこまで言うなら、俺はもうここへは来ないぞ」

 と、金吾が低い声で言った。

「勝手にしろ」

 と、寅之助は冷たく言った。

 気まずい沈黙が流れた。

 安利には、何を言うべきか、わからなかった。

「煎じて、飲ませてやってくれ」

 と、金吾は安利の手ににんじんを握らせて、階段をおりていった。

 寅之助は、話は済んだと言わんばかりに、また仰向けになった。

「兄上は、どうして……」

 言葉が続かなかった。

 どうして一人になろうとするのだろう。伝染る病と言われたわけでもないのに。

 一人きりで、この暗い土蔵の二階で、いつも何を考えているのだろう。

 安利がうつむいたまま、いつまでも去らずにいると、

「なぁ、お前もしかして」

 寅之助は天井を見たまま、

「……いつかのハチのこと、まだ気にしているのか?」

 と言った。

 安利は、顔を上げることができなかった。

「馬鹿だな、お前は。たかがハチの毒が何年も残るわけないだろう。この病とあの時のことは何も関係ない」

 長作先生にもそう聞いた。けれど安利には信じられない。

「安利、お前は何も悪くない。あの時俺は、本気でハチをやっつけようとしていたんだ。木刀で打ち落ちしてやろうとな。容易いと思っていた」

「……」

「俺は源頼光になりきって、ハチに勝負を挑んで、負けた。それだけのことだ」

「でも、兄上はあの日から病気がちになったではないですか」

「たまたまだ」

「信じられません」

「昼間のあいつじゃない。夜中に、別の奴に刺された。いや、母上のお腹の中にいるうちに、もう刺されていたらしい」

 と、寅之助は一息に言った。

「何を、おっしゃっているのですか?」

「誰にも言うなよ」

「何をですか?」

「今から言うことを」

 安利は、眉をひそめながら、うなずくしかなかった。

「豪潮律師の占いによれば、俺は十九までに死ぬそうだ。だから、学問も、家の手伝いも、はりきったところで何にもならない。ただ言われたことを黙々とこなして、そっと消えていこうと思っている」

 あまりにも突然のことで、安利には兄の言葉がうまく飲み込めない。

「十九までにというのが、何とも中途半端だと思わないか? いっそ今すぐの方が楽でいいのに」

 と言って、寅之助は目を閉じた。

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