同日 寅之助 6歳

 その日の夜、寅之助は傷の痛みで、なかなか寝つかれずにいた。

 それにもかかわらず、三郎右衛門と平八が当初の予定通り、秋風庵で話し合いを始めてしまったのには、二つの原因がある。

 一つは、寅之助が日中、つらそうな素振りをあまり見せなかったこと。本当は焼けるような痛みだったのだが、子どもらしからぬ矜持を持つ寅之助は、心配してもらうことで周囲の関心を集めるというのをよしとしなかった。

 もう一つは、寅之助の負傷によって、三郎右衛門と平八それぞれの保護者としての自覚が強まったこと。親は自分だと確認したいという焦りのために、当の寅之助が眠ったふりをして話を聞いているかもしれないということには、二人とも考えが及ばなかったのである。

 この夜、二人の会話を盗み聞きしていなければ、寅之助のその後の人生はまったく違ったものになっていただろう。


「あの子を返していただきたいのです」

「その話だろうとは思っていた」

 間。

「これまでのことは、本当に感謝しております」

 間。

「まこと手前勝手な願いであるとは、重々承知しております」

「三郎右衛門、お前の魂胆はわかっているぞ。待ちに待った次男が無事に生まれず、そのうえ寅之助は占いに反して健やかに育っている。あの子が惜しくなったのだろう」

 間。

「あけすけに申せば、その通りです」

「寅を返すつもりはない」

「兄上」

「あの子は今でこそ元気すぎるほどだが、これから大病をして、弱っていくのかもしれない。だとすれば、博多屋の仕事は勤まるまい。病弱な者同士、俺の方が何かと気が合うだろう」

「確かに、そのように考えました」

「ならば、このままでよいではないか」

「あの子の命運が平坦ではなかろうとは、覚悟しております。今日、長作先生が寅之助のほくろを指して何か言いかけたのも、何かよからぬものを見出されたのではないかと」

「あんなものはただの雑談だろう」

「そうであればよいのですが……」

 間。

「こんな言い方をすれば、兄上はお怒りになるでしょうが」

「養子に出したわけではない、か?」

「……はい」

 そして、長い間があった。

 さすがの寅之助も、頭を整理するのに忙しく、しばし傷の痛みを忘れたほどであった。

 安利を連れてたびたび通ってくる三郎右衛門が実の父であるということは、薄々わかっていた。

 だが、占いで病弱と予見されていることは、初耳であった。

「血を分けたのはお前だ。公事(裁判)にかければ、そちらに有利だろうな」

「まさか、兄弟で公事など……」

「しかし、そうでもしなければ、俺は手放さん」

 間。

「気ままに句を詠むだけの男に、跡取りなどいらないと思うか?」

「いえ、そのようなことは」

「実際、俺も跡取りが欲しいわけではない。男児に恵まれなかった以上、どうしても継ぐ者が欲しければ自分で養子を探した。俺はただ、寅がかわいいのだ」

 間。

「無論、博多屋が途絶えていいとは俺も思わない。ユイは今年でいくつだ?」

「二十四になります」

「まだ若いではないか。先日のことは残念だったが、跡取りに相応しい子はきっとまた授かる」

「寅之助を跡取りにしようというのではありません」

「何だと?」

「無理をすれば体に障り、仕事が滞りでもすれば博多屋の信用に関わります。寅之助には、学問をさせたいのです」

 間。

「なるほど」

 間。

「その歳になって、未練があったとはな。幼き日の無念を息子に晴らさせようというわけか」

「どのように受け取られてもかまいません」

「違うのか? 商いには無用の長物、変に知恵をつけてはむしろ有害と、父上から書物を取りあげられて泣いているお前を俺はよく覚えているぞ」

「学問は、有益です。学ぶ当人にとっても、商いの上でも」

「学問をしたことがないお前になぜそんなことがわかる」

「今は根拠のない、ただの願望です。しかしきっと寅之助が学問の尊さを証明してくれます」

「商いは無理な体でも、学問ならできると?」

「俳諧と学問を一緒くたにしては乱暴やもしれませんが、現に兄上は俳人として名をはせておいででしょう」

「口が上手くなったな、三郎右衛門。少なくともお前が当主でいるうちは、博多屋は安泰だ」

「寅之助が学問を身につけて、博多屋を側面から支えてくれることを、私は夢見ているのです」

 寅之助は、襖の向こうから漏れ聞こえてくる会話が、自分について話しているということを、すんなりとは理解できなかった。

 生き方は自由、という概念は、この時代、この国にはない。

 まして、寅之助はまだ六歳の子どもである。恐ろしく大人びたところがあるとは言え、自分は将来、何者になってどんな風に生きていきたいという、明確な指針などあろうはずもない。

 それでも。

 それでも寅之助は、自分の意思とはまったく無関係なところで、自分の生き方が云々されているということに、強い嫌悪感を覚えていた。

「先刻、跡取りが欲しいわけではないとおっしゃいましたが、では兄上は、あの子をどのように育てようとお考えで?」

「あの子がいくつだかわかっているのか? そんなことを考えるのは早計だ」

「いえ、学問なら、もう始める頃合いです。まず、最低限の読み書きは私が教えます。その上で、長福寺の法幢上人ほうとうしょうにんより句読を授けていただく所存です」

「もうそこまで考えているのか。ずいぶん必死だな」

「我が子のことです。必死にならぬわけがないでしょう」

「だったら、初めから〝必死〟になるべきだったのではないか?」

 間。

「偉い坊さんの言いなりになって、右往左往しているお前に、寅之助をしあわせにできるとは思えん。あの子はこれまで通り、俺が育てる」

 二人の男は――言うまでもないが――それぞれに寅之助を愛していたのである。

 しかし、当の寅之助は、愛されているとは微塵も感じなかった。まるでもののように扱われることが、どれほど不快であるか――この体験は寅之助の胸の奥に深く深く刻み込まれた。スズメバチの針よりも深く、鋭く、奥底を抉った。

 が、ここまでで済めば、ただの心の傷で済んだかもしれない。

「どうか、この通りです」

「よさないか。見苦しいぞ、三郎右衛門」

 疲れた。もう眠ろう。

 瞳を閉じて、意識が遠のきかけたその時、鼓膜に飛び込んできた言葉が、寅之助を再び現実に引き戻した。

「占いの結果には続きがあるのです。あの子の命は、もって十九までと」

 以後、襖の向こうのやりとりは、寅之助の耳にはほとんど入らなかった。

 悲しみも怒りも沸かなかった。ただひたすら、混乱していた。

 十九まで。残された時間が長いのか短いのか、よくわからない。

 この時点で、寅之助が経験している「人の死」は、祖父の葬式のみ。十九歳までに死ぬとはどういうことか、理解しろというほうが無理である。

 若くして死ぬ。だから何だ?

 ひどく混乱しながら、寅之助はいつしか眠りに落ちていた。そして、夢を見た。


 宙にふわふわと浮いて、自分の葬式を眺めている。

 金吾や、安利、友達も皆すっかり立派になって、沈痛な面持ちをしているが、焼香を済ませると速やかに去り、それぞれの居場所へ帰っていく。

 視点はゆっくりと上昇する。

 人々の忙しそうな、楽しそうな生活が、少しずつ小さくなっていく。

 足をバタつかせ、空を掻いても、上昇を止めることはできない。

 やがて雲に飲まれ、何も見えなくなる。


 翌朝、寅之助の両の目からは活力が失われていた。

 人は皆、左手の傷を案じてくれた。

 しかし、何日かして手の腫れが引いても、目の淀みは消えなかった。

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