同日 長作 45歳

 金吾の父・長作ちょうさくは町医者である。

 息子から寅之助の名はよく聞いていたが、顔を見るのはこれが初めてだった。唇を噛みしめ、目尻に涙を溜めて、大人でも悲鳴をあげるような痛みに耐えている。大したものだ。思わず抱きしめてやりたくなるような健気さであった。

 診療所にやってきたのは、金吾と寅之助、寅之助の妹・安利、父の三郎右衛門と、その兄・平八の合わせて四人。

「いかがですか、先生」

 三郎右衛門が言った。

 寅之助は生まれてすぐ親元を離れ、平八に育てられているらしい。せっかく生まれた長男を兄に預けるとはどういう事情か、当初は色々と憶測が飛んでいたようだが、すぐに鎮火した。豆田の町における博多屋への信望は篤い。

「これまでスズメバチに刺されたことは?」

「いえ、これが初めてのはずです」

 と答えたのは、平八だった。

 長作は、

「ならばよかった。スズメバチの毒は二度目が危ないのです。体が過剰に反応して、命を落とすこともあります」

 と、説明した。

 その言葉に、場にいた全員が一斉に蒼ざめた。

「一度目ならまず大丈夫です。何日かすれば腫れも引きます。患部をよく冷やしてやってください」

「わかりました」

 との返事は、これも平八がした。

 三郎右衛門は何やら複雑そうな顔をしていた。

 しかし、今はそんなことより、刺された左手の甲よりも、ずっと気がかりなことがある。

「一つお伺いしますが、このほくろは?」

 仏像の白毫のように、寅之助の額の中央にある小さなほくろについて、長作は誰にとはなしに問うた。

「生まれつきのものですが……」

 と、三郎右衛門が答えた。何を訊かれているのかわからないといった様子であった。

 確かに、こちらも要領を得ない言い方になってしまった。年寄りのシミとは違う。子どものほくろは生まれつきに決まっている。

「失礼。ただ、縁起が良いですねと、そう感じたまでです」

「そうですか。どうも」

 と、三郎右衛門はあいまいに微笑んだ。

 何も言うべきではなかった。どうせ何もできない。

「父上、寅之助は立派でした」

 と、金吾が口を開いた。

「そうだな。よく泣かなかった」

「いえ、刺された時もです」

「刺された時?」

「こいつは妹をかばったのです」

 金吾の口調は、まるで自分のことのように誇らしげである。

「はじめは妹が刺されそうになっていました。寅之助は自分の着物を脱いで妹にかぶせてやり、自分が犠牲に……」

「違うぞ、金吾。あれは俺が勝手に刺されたんだ」

 と、寅之助が口を挟んだ。

 安利は先ほどから不安そうに立ち尽くしている。

 長作は、心の中でため息をついた。

 金吾の一つ下、若干六歳。その幼さで、身を挺して妹を守り、しかもその手柄を否定するとは――


 尚、このとき、長作はまんまと騙されている。

 寅之助は、大人たちの歓心を買うために、敢えて口を挟んだのである。すぐに止めなかったのは、自分の行動を長作に聞かせるためであった。

 無論、そういう小賢しいところの一つや二つあったところで、寅之助を悪童と見なす理由にはならない。


 ――皮肉なものだ。こんなに勇敢で、優しく、賢い子供が、長くは生きられないとは。

 礼を言って去っていく大人たちと安利、そして寅之助を、長作は虚しい気持ちで見送った。

 長作は、他人の体の一部を見て、重い病の兆しに気付くことがある。それは医者としての知識ではなく、一種の霊感のようなものであった。

 これまで、ただの一度も、自分の気付きを人に話したことはない。気付くのは、自分の――いや、今のこの国の医術では、とうてい歯が立たない病ばかりだからだ。ならば、話したところで、絶望を与えることにしかならない。

 つまり、この力は、長作に無力感を与える以外、何の役にも立っていない。

「金吾」

「はい」

「お前、医者になりたいか」

「はい。今日の父上を見て、今まで以上にそう思いました」

「そうか」

 金吾が大人になる頃には、医術が進歩して、寅之助の病も治せるようになるだろうか。

 できればそうあってほしいと願いながら、長作は薬箱を閉じた。

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