天明7年(1787) 平八 41歳
「行くぞ、金時、季武、貞光、綱! 人々を苦しめる鬼の頭目、
子どもたち、木刀を振りかざし、すすきの原に分け入っていく。
寅之助・六歳――しあわせな子どもだ、と、
病弱というお告げはどこへやら、あのようにすくすくと育っている。近所の子供たちの中でも腕白な方だ。毎日のようにチャンバラごっこをして、しばしば木刀を折る。買ってやった木刀はあれでもう六本目になる。
何しろ、生きている。飢えを知らず、生きている。それがしあわせだ。
あの子が生まれた翌年、信濃の浅間山が火を噴き、それを合図とするように、ひどい飢饉が始まった。今年も稲の育ちはよくない。全国の農民が苦境に立たされている。特に東北は地獄のような有り様で、餓死した人間の肉を食っているなどという噂さえある。
この日田は、豊かである。その中でも我が実家・博多屋は音に聞こえた豪商。米の蓄えも、米を買う金もある。
天にもし神仏の類がいるのなら、裕福な家の子どもになど関わっていないで、飢えに苦しむ百姓たちを救ってやってほしい。
「よく来たな、
と言っても、不都合なことは何もない。子供はのびのび育てばよい。
「くそっ、酒呑童子め、手強い! みなの者、一時下がるぞ!」
「臆したか、源頼光!」
伊兵衛、奇妙な形相で子供たちを追い回す。子供たち、笑いながら逃げ惑う。
寅之助は――腕白なだけではない。聡い。伊兵衛の語る戦物語を誰より早く暗唱し、ときおり、大人のようなことを言う。他の子供たちとは――伯父のひいき目ではなく――目つきが違う。
何か特別な教育をしたわけではない。生まれつきというやつだろう。
寅之助は平八を「父上」と呼ぶが、本当の親ではないことは既に感づいていて、素知らぬ振りを、おそらく、している。そのぐらいの計算は寅之助ならやりかねない。
しあわせで、面白い子供だ、と、平八は思う。跡取りなどにこだわりはないが、安々と手放すつもりはない。
「兄上、いらっしゃいますか」
と、三郎右衛門の声。
弟は近頃、頻繁に通ってくる。魂胆は見えている。あいつは寅之助を取り返そうとしている。
二番目の男児が死産という悲劇に見舞われ、一度はあきらめた長男がいまさら惜しくなったのだろう。病弱でも、俺のようにつなぎの当主なら務まるかもしれない。
「暇なのか、三郎右衛門」
「仕事は忙しくしております。ただ、
安利は寅之助の二つ下の妹である。
一緒に遊ばせたいという言葉は決して嘘ではないだろう。ただ、本当の狙いは、寅之助の自分に対する存在感を増すためにちがいない。血のつながった父親は自分だと、言外に主張しているのだ。
「兄上、今宵、お話ししたいことがございます」
……ついに、来たか。
「今では駄目なのか?」
「私はもう仕事に戻らねばなりませんので」
「よかろう。どうせ俺は暇な隠居の身だ」
「では、夜四ツ(午後十時)頃、お伺い致します」
軽く、布石を置いておこう。
「三郎右衛門」
「はい」
「あの子は、俺を〝父上〟と呼ぶぞ」
「……存じておりますが、それが何か?」
隠そうとしても、動揺は見て取れる。その素直さが弟の美点でもあるのだが。
そのとき、
「おじ様!」
と、駆け込んできたのは、
歳は寅之助より一つ上。控え目だが芯は強く、幼いのに気配りができ、何かと目立ちたがる寅之助を立ててくれているようなところがある。
その金吾が、いつになく慌てふためいている。
「寅がハチに刺された!」
平八が立ち上がるのと、三郎右衛門が表へ飛び出すのは、ほぼ同時であった。
より早く駆け付けた方が本当の親というわけでもあるまいに――と、平八は、寅之助の身を純粋に案じる一方で、何やらこじれた間柄になった自分たち兄弟を嘲笑した。
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