第5品 引く手数多


 ◇


 目的地の雑居ビルは思った以上に古かった。窓を数える限り4階建てだ。

 一応テナントが入っているらしいが物音は一切しない人がいるのかすら不安なビルだった。何故このビルから飛び降りることを選んだのか。それは少し疑問でもあったが、俺達が突き止める案件はそこではない。

 ここら辺にいるかもしれない怪異の捜索だ。


 ビルが面している道路は大型車同士はすれ違えない大きさの道路だった。

 電柱があり、白線があり、マンホールがあり。と、特に変わった様子はない。


「どうだ? なんか視えるか?」


 電車とバス内でうつらうつらとしていたそいつの声はどこかパッとしない。


「いや。特には……」


 終夜も何も見つけられないのか、ぼんやりと例のビルを眺めていた。

 もう一度足下だけでなく上の方も確認するが、やはり何も見当たらない。

 もう少し離れた場所にいるのか、それとももうどこかへ移動したのか。


 そんな中。

 俺の視線がとある一点で止まった。

 なんでそこを注視したのかは自分でも分からない。なんとなくそこが気になったのだ。そこもなにもないのに。


 すぐ近くの小さな交差点。

 俺の目はそこに釘付けだった。どうしてもそこが気になる。だからそこに近寄らずにはいられなかったのだ。


 蝶を追いかける子供のように、俺は歩き出す。


「九十九? なんかあったのか?」


 終夜が声をかけてくる。奴の目には今の俺がどう見えているのだろう。歩きながらもどこか他人事だった。


 俺の足は意味もなく交差点のど真ん中まで俺を連れて行った。

 陽炎のように視界が揺らいだ。

 ぐらぐらと目の前がおかしく歪むと、生ぬるい風が俺の全身をなで回した。舌から吹き上げるその風にぞわぞわと鳥肌が立つ。

 俺はもつれるようにその場を離れる。だが足がおぼつかない。吹き続ける風はまるで腐臭だった。汚物をぶちまけられたような、吐き気を誘うような臭い。


 思考が働かないどころか、身体すら上手く動かせない。

 そんな俺の腕を何かが力強く引いた。


 そのまま元いた場所まで引っ張られる。そこでようやく視界が回復した。

 臭いはまだする。鼻に染みついたようにずっと漂っている。


「いるのか、そこに」


 俺は頷いてから、昼のことを思い出した。

 術の加護下でなければ視えない――終夜はそう言っていた。


「何された? 溺れかけたのか?」


 何も視えていないのだろう。だけど、そいつは俺の怪異の間に立ちふさがった。

 俺を庇うように腕を伸ばす。


「いや、そんな感じじゃない」


 嗅覚が回復したのか、少し臭いが薄らいだ。

 交差点に住んでいた怪異は、まるで手のような形をしていた。左右のはっきりしない腕が地面から何本も絡み合うように生え、今か今かと蜘蛛の巣のように獲物を待ちかねている。否、探し求めている。

 ぞわりと鳥肌が立つ。


「おい! ここから離れるぞ!」

「……いや」


 終夜は指定鞄を地面に投げ捨てた。

 何をする気だと揺さぶる前に、そいつは内ポケットからハンカチを取り出した。長方形に畳まれたそのハンカチは確か、昼休み受け取っていたものだ。

 そのハンカチの中には札が包まれていた。達筆すぎて読めない字で何かが書かれている。終夜はそれを1枚掴むと、自分の顔の前に翳した。

 墨で書かれたその文字が光沢を持ったかのように一瞬光る。そして薄氷のように割れて、空中に消えた。


 先ほどまで真に迫りつつもいささか的外れな場所を見ていた終夜の視点が、真っ直ぐにそれを捉える。


 手はそれぞれが意思を持つかのようにありとあらゆる方向に動き続ける。けど、うねうねと蠢きつつも、少しずつ匍匐するかのようにこちらに来ているような気がした。

 交差点の真ん中にいたはずなのに、今は俺達が立っているほうの道へ寄っている。


「このままじゃ、どこまでも追いかけてくる」


 終夜は冷静にそう言った。

 追いかけてくる――多分、俺を。

 今までの経験から嫌でも分かる。ああいったものは何故か俺を執拗に狙うのだ。


 終夜は札をもう1枚取り出すと、残りは再び内ポケットにしまった。

「下がってろ」と俺の肩を突き飛ばすと、竹刀袋から1本竹刀を取り出す。

 札を地面に落とすと、それを竹刀の先で力強く叩いた。カツン!と乾いた音。


 今度は消えたりはしなかった。地面と一体化したかのようにその場に張り付く。それ以外に変わった様子はない。


 終夜は竹刀を構えると――駆けだした。


「馬ッ鹿……!」


 俺は勢いよく手を伸ばしたが、間に合わずに、虚しく空を掴む。

 手は近寄ってくる終夜には気にせず、前進を続ける。

 あくまでも狙いは俺だ。俺以外は眼中にない。

 なら終夜を無視して俺がここから逃げ出せば、なんとか、なる。


 けど、その必要はなくなった。


 竹刀を構えたそいつは、怪異の中心を思いきり突いた。


 腕の集合体が一瞬にしてばらけた。

 腕が1本1本ばらばらになり、まるでつり上げられた魚のようにびちびちと、数え切れないほどの腕が苦しそうに捩る。


 そのまま徐々に力がなくなっていくと、その怪異は爆発して霧消した。


 俺は息をするのを忘れていた。

 気を抜けばそのばにへたり込んでしまいそうだった。


 再び、カツン!と乾いた音がして俺は現実に戻される。終夜が再び地面の札を叩く。

 さっきまでそこにあった札はどこにも見当たらなかった。

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四丁目の万屋奇譚 玖柳龍華 @ryuka

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