終章 新しい冬の朝






 佐江島伽奈さえじまかなの朝は、戦闘準備から始まる。


 大抵、アラームの五分前には自動的に目が覚めている。しかし、今朝伽奈が目覚めたのは十分前だった。普段ならそのまま布団の中でアラームが鳴るのを待つが、伽奈はそのまま上体を起こした。ベッドから降りて、鈍い青色をしたカーテンを開ける。まだ穏やかに霞んでいる朝日が、部屋に明度を投げかけた。

 顔を洗い、パジャマを脱ぎ、制服のシャツに袖を通す。タイツを履き、くすんだ赤がベースのチェックのプリーツスカートを重ね、同系色のリボンを胸元につける。防寒のため、更に薄手のセーターを着込んだ。そして鏡の前へ行き、ずっしりと重たい黒髪を二つに分けて結う。頭皮が軽く引っ張られるくらいにきつめに結うと、身の引き締まる思いがした。

 伽奈は自分の顔を鏡越しに見つめた。目は赤く、瞼はひどく腫れぼったい。溜息を吐き、洗面所へ行ってもう一度冷水を顔に浴びせた。冷たさが皮膚をきゅっと引き締めるような気がして、伽奈はしばらくその感覚を馴染ませてから、タオルで水気を拭き取った。


 ダイニングに向かうと、まだそこには誰もいなかった。伽奈は食パンを一枚袋から出し、トースターに放り込む。コーヒーメーカーに手が伸びかけたが、途中で考え直して冷蔵庫を開けた。オレンジジュースのパックを出してコップにそそぐ。鮮やかなオレンジ色をしたそれを一口含むと、酸味がじわりと舌に広がる。

 トーストが焼きあがると同時に、洋一よういちが姿を現した。伽奈は僅かに眠たげな父親の顔を見上げ、「おはよう」と声をかける。洋一は伽奈を見返すと目を細め、「おはよう」と返事をした。


「お父さん」


 皿に乗せたトースト、そしてジュースの入ったコップと共に定位置の席につきながら、伽奈は呼びかけた。コーヒーを作りながら、洋一は続きを促すようにちらりと振り返る。


「今晩、何か食べたいものある?」


 洋一の目が、驚いたように僅かに見開かれた。しばらくの思考の間を置いて、伽奈でなくては気付けないような微かな照れを含んだ声が返る。


「トマト煮がいいな。鶏肉の」


 それは、母が生きていたころからの父の好物だった。母親が、悪戯っぽく笑って言っていたのを伽奈は覚えている。


 ――お父さんに何かお願いごとをしたい時はね、鶏肉のトマト煮を作ってあげればいいのよ。そうしたらお父さん、機嫌が良くなるから。


 少女のようにころころと笑う母の顔を思い出し、伽奈は小さく微笑んだ。






***






 玄関から一歩外に出ると、今日も身を切るような冬風が伽奈を迎える。朝の空気を吸い込むと、肺に鋭く澄んだものが満ち満ちた。二つに結った髪を靡かせ、伽奈は颯爽と坂道を下りだす。

 気温はかなり低かったが、空には遠くの方に薄い雲がたなびいている他は、どこまでも青く高く広がっていた。凍ったように固いアスファルトの地面を踏みしめながら、伽奈は高台にさしかかった。


 高台には、珍しく人の影があった。少女が一人、伽奈に背を向けて風景を眺めている。その時勢いよく山から吹き下ろした風が、伽奈の髪を激しくなぶった。しかしその少女の長い黒髪は、春風の中にいるように緩やかにそよいだだけだった。


 伽奈は立ち止まる。


 視線に気付いたのか、少女は顔にかかる髪を手で押さえながら振り返った。濃紺の長いプリーツスカートが動きに合わせてゆらりと舞い、その裾を冬の空気に溶かしていく。季節外れのセーラー服。


 少女は――ほのかは、悪戯に失敗した子供のように笑った。


「――……もう成仏したんじゃ、なかったの」

「言ったでしょう、私は仏教徒じゃないって」


 何よそれ、と憎まれ口を叩く語尾が震えないように、伽奈は拳を握り締めた。


「それに、莫迦ばかな友達ができてしまったから」


 仄は伽奈の反応を楽しむように、目をすがめて、唇を微笑の形に歪めた。本当に性格の悪い奴、と伽奈は目の前の少女を睨む。

 それは、決して涙が零れるのを耐えようとしたわけではなくて。


 柵から離れ、仄は伽奈の隣まで泳ぐようにして近付いた。ふと、首を傾げて伽奈の顔を覗き込む。


「目元、腫れてるわよ。不細工ね」

「うるさいっ」


 言葉を投げつけ合いながら、伽奈と仄はそして坂を下りていく。幽霊の少女は他の誰にも見えることはないが、確かに伽奈の隣に、伽奈のたった一人の友人として存在している。

 ありがとう、と小さく呟いた。仄は何も言わなかったが、機嫌よくスカートをひらめかせて空を仰いだ。


伽奈は仄を透かして淡い青空を見た。まるでどこまでも落ちてゆけそうな、果てのない空だった。

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