第七章 夜深く(2)
「……
「わたし以外には見えないんじゃなかったの?」
仄は無表情に伽奈を見返していたが、ふいに笑った。
「――何でかしらね。気合い入れたらできちゃった」
「気合い、って……」
呑気な言葉に伽奈は思わず脱力した。仄の様子は、一見したところ何も不自然なところはない。いつものように、少し皮肉めいた表情でくつくつと笑っている。
内心でほっとした伽奈は、乱れた髪からリボンとヘアゴムを外した。鏡がないから結い直すこともできないが、そのままにしておくよりは髪を下ろしていた方がましだ。
「殺しちゃってもよかったんだけど、そうしたら貴女怒るでしょう?」
「あ――当たり前でしょ!」
急に物騒なことを言い出す仄に反射的に声を上げてしまったが、幸い公園には酔っ払いが一人ベンチで潰れているだけで、伽奈に目を向ける者は誰もいなかった。
仄は鷹揚な仕草で肩をすくめる。
「でも、死んでもいいようなクズじゃない。それとも、自分がいつも死にぞこなってるから、先に死なれたら悔しいの?」
「だから、わたしは死にたくてあんなことしてるんじゃないの!」
「じゃあ、どうして?」
ふっと仄が視線を落とした。見つめているのは、伽奈の左手。伽奈は無意識に自分の左手首を掴んだ。
――わたしは死にたいわけじゃない。
――でも、仄は自分で死んだのだ。
塞がっているはずの傷口が、鼓動に合わせてずきんと痛む感覚があった。伽奈は思い出す。無骨なカッターナイフを握った時の、プラスチックのグリップのあの感触。刃を繰り出す、虫の鳴くような音。それを皮膚に押し当てた時の冷たさ。横に引くと走る、全身を駆け抜ける悪寒。
それらを一つ一つ思い出しながら、伽奈は口を開いていた。
「――……多分、あの痛みに耐えられるなら、わたしはまだ他のことも全部耐えられるって思えるから。わたしはまだ大丈夫だって、思えるから」
それは、自分でも初めて言葉にすることのできた思いだった。今の今まで、そんな思いが存在していたことすら、自分でも知らなかった。
口にすると、何故だか急に熱いものが込み上げてきて、伽奈は語尾が震えようとするのを必死に押しとどめた。仄はそれをからかうでもなく、ただ伽奈の言葉を静かに受け止めていた。そのことが、伽奈には嬉しかった。
「……私は、大丈夫じゃなかったの」
ぽつりと、そう仄が零した。
伽奈は俯けていた顔を上げる。目の前の大人びた少女は、親に取り残された幼い子供のような表情で伽奈を見ていた。どこか縋り付くようなその表情に、伽奈はそっと息を呑む。
仄のことだ、内に抱えていたものを誰かに吐露することなど、生前はなかったのだろう。年齢不相応に成熟していて、達観していて、けれども不器用な恋をしていた少女。恋人だと言ったのに、仄はその人を名前ではなく先生と呼んでいた。それはどういう意味だったのだろう。仄にとって、恋人とはどのようなものだったのだろう。
「私はせめて、私を一生残る傷にしてやろうと思って――あの人を呼び出して、目の前で飛び降りたの。……
仄が自嘲を言葉にするのを、伽奈は初めて耳にした。
「なのに、あの人まで死んじゃったら、意味ないじゃない。私が死んだ意味なんて、欠片も残らなかった」
――今にも泣き出しそうな、表情だった。
恋人が自殺したと聞いた時は、もっと虚ろで――空っぽな表情をしていた。けれども今は違う。仄の細い体躯の中に、純粋な悲しみが
(今度こそ、何か言わなきゃ)
(誰かが、何か、仄に言ってあげなくちゃ)
(――私が、言わないと)
伽奈は、仄のことを「友達」と、そう呼んだのだから。
「――それは」
伽奈が絞り出した声は、緊張に掠れた。仄がぼんやりとした動きで伽奈を見る。濡れた漆黒の瞳が、言葉を待つようにまっすぐに伽奈の瞳を注視していた。
ごくりと
「それは、仄がその人に死に至るほどの傷を残せたって、そういうことだと思う」
仄は――その言葉に、目を見張った。
勿論、伽奈は仄の「先生」のことをほとんど何一つ知らない。会ったことも、顔を見たこともない。分かっていることは全て、伝聞の断片的な情報ばかり。だから、今自分の言ったことが真実だとは、実のところ思ってはいなかった。
嘘を吐いたわけではない。ただ、伽奈が仄に言える言葉を言っただけ。
そんなことは、当然仄も分かっていただろう。仄自身、伽奈にそこまで詳しい話をしたわけではないのだから。けれども、今の言葉に伽奈の最大限の思いが込められていたことは、確実に伝わった。
何故なら、仄は微笑んだからだ。
いつものチェシャ猫のような笑みではなく、小さな花のほころぶような微笑。伽奈は、その微笑が美しいと思った。それは、年相応の少女の美しさだった。
目を細めた拍子に、仄の切れ長の目尻から涙が一筋零れた。青白い頬を流星のように伝い、華奢な顎で一瞬止まり――肌を離れて落ちると同時、その雫はかき消えて見えなくなった。
「……そっか」
どこか安心したように、仄はそう呟いた。その安堵の表情を見て、ようやく伽奈は仄のことを理解できたような気がした。
仄はただ、愛されたかっただけなのだ。
***
伽奈が家に戻った時には、22時を回りかけていた。そっと玄関のドアを開けて、首を突っ込んで家の中の様子を覗き込む。驚いたことに、リビングに明かりがついていた。大抵夕食を食べ終えたら、父親は自分の書斎にこもりきりになるはずなのに。
仄を
「おかえりなさい」
「た……ただいま」
つっかえながら伽奈が返事をすると、洋一はかけていた老眼鏡をゆっくりと外し、本を閉じた。何故だか、怒られるのだろうか、という予感がふと伽奈の頭によぎる。父親に怒られたことなど、覚えている限りは一度もなかったが。
しかし予想に反して、洋一はじっと伽奈の姿を眺めると、かろうじて分かる程度に目の端を緩めてこう言った。
「母さんはお前みたいな服装をしたことはなかったが……そうしていると、何故か母さんによく似ている気がするよ」
音もなく、雷に打たれたようだった。伽奈は何かを言おうと口を開いたが、結局何も思いつかなかった。
しばらくしてやっと口にできたのは、何の脈絡もない呼びかけだった。
「……おとうさん」
「うん」
「……ただいま」
「うん」
おかえりなさい、と、洋一は再び言った。伽奈の言葉に首を傾げることすらせずに。
伽奈は顔をそむけるようにリビングから背を向けた。それでもやはり、泣いているところは父親には見られたくなかった。滲んだ視界の中、ひんやりとした廊下に目をやって、ようやく異変に気付く。
さっきまで一緒にいたはずの、仄がいなかった。
伽奈は小走りに階段を駆け上がり、自室のドアを開けた。しかし、そこにも彼女の姿はない。伽奈は呆然としたままコートを脱ぎ、ベッドの上に落とした。手指の感覚がまるでなかった。
もう、仄を探すべき場所は、伽奈の行けるところにはないような気がした。
(何か……何か、言ってくれたってよかったのに)
力なくベッドに腰を下ろし、フローリングの床を見つめた。結局仄は、自分のことを友達だと思ってくれていただろうか。伽奈にはもう、分からない。
ぼんやりと視線を上げると、机の上のカッターナイフが目に入る。伽奈は立ち上がってそれを手に取った。少し重量のあるそれが、いつもは手のひらに馴染むのに、今日は何故だかひどくよそよそしかった。
グリップを握り、刃を繰り出す。きちきちと音を立てて現れた刃が、部屋の照明を反射してぼんやりと光っていた。伽奈は息を吸い、それを左の手首に押し当てる。いつもはそこで真っ白になっていく頭の中に、いつまでたっても夜風が吹いていた。あの公園の暗がりと、そこに佇んでいた仄が記憶に焼き付いて離れない。
「……っ!」
振り切るように、醜く盛り上がった幾筋もの傷跡の上にカッターの刃を当てる。「おかえりなさい」と言う父の声が耳元で響いた。手が震えだす。「……そっか」と安堵したように呟く仄の微笑。震えた刃が皮膚に当たり、ひやりとした感触がする。止まらない手の震えに、伽奈はもはやカッターナイフを握っていられなくなった。投げ出すようにそれを取り落とす。床に落ちて硬質な音を立てると、ナイフはじっと横たわって伽奈を見返した。
震え続ける右手を左手で包み、伽奈は喘ぐように息を吸う。いつもの呼吸の仕方が分からなかった。膝の力が抜けて床にへたりこむ。黒々としたレースに縁どられた布地に、涙が次々と零れて不規則な染みを作っていく。
「うぅ……!!」
わけもなく悔しくて、伽奈は歯を食い縛る。萎えた脚を拳で強く叩いた。今更のように、
仄。
お父さん。
お母さん。
「おかあさん……っ!」
伽奈は自分をきつく抱きしめる。そこに、母の温もりが存在していないのは分かっていた。ずっと前から、そんなことはとっくに分かっていたのだ。
結局仄も自分も、ただひたすら強がっていただけだった。伽奈は身体のあちこちに感じる痛みを抱えるようにしながら思う。
お母さん。
わたしはどうやったら、うまく生きられる?
冷え切った夜の底に、取り残されているようだった。伽奈は涙が
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