第六章 夜深く(1)






 家に入るなり、ほのかは『ちょっと考え事があるから』と、一人先に部屋へ漂っていってしまった。伽奈かなはしばらくの間部屋に行くのを諦め、ビーフシチューの匂いが流れてくるキッチンへと足を向けた。今日は父親が夕食の当番だ。


 キッチンでは、洋一よういちが静かに鍋をかき混ぜていた。伽奈の気配に気付くと、「お帰りなさい」と振り返りもせずに声をかけてくる。


「ただいま」


 父の背に向かって返事をし、鞄を適当な隅に置く。コートを脱ぎながら、そういえば、二人でゆっくり夕食を食べるのは久しぶりかもしれない、と伽奈は思った。

 かちんと音を立てて火を止め、洋一がようやく振り返る。


「着替えなくていいのか?」

「あ……うん。今日はこのまま食べる」

「そうか」


 食器棚から二人分の皿を取り出す洋一に、伽奈もコップを出して茶をいだ。野菜も肉もたっぷり入った、とろりとした光沢のあるシチューが食卓に置かれる。かつては伽奈の母がしばしば作ってくれた、父娘二人の好物だった。食欲をそそる匂いに、今更ながら空腹だったことを伽奈は思い出した。炊飯器を開け、つやつやと炊かれた米をそれぞれの茶碗に盛る。白く立ち上る湯気が、冷えた頬を温めるように撫でていく。


「いただきます」


 お互い、独り言のようにそれぞれ呟いてスプーンを取った。それからどちらも一言も発さず、時折食器の触れ合う硬質な音だけが鳴る。いつもの食卓だ。しかし今日の伽奈は、何故か無性に何かを話したくてたまらない気持ちだった。


「――この前、お葬式に行ってたの?」


 必要な連絡事項ではなく、単なる雑談とも言うべき質問に、洋一は驚いたように目線を上げた。伽奈はその視線にささやかな緊張を見てとった。緊張していたのは、伽奈も同じだったが。


 少しの間をおいて、伽奈が予想していたよりも穏やかな口調で洋一は答えた。


「通夜だよ。昔の教え子でね。まだ若かったんだが」

「そう……」

「高校で現文を教えていたんだが、しばらく心を病んでしまっていたようでね。自殺してしまったんだ」

「え――」


 自殺。ここ数日でいやに身近に感じるようになってしまったその言葉に、自然と伽奈は反応した。洋一の表情は淡々としたものだったが、伽奈の目にはその目尻の疲労に静かな悲しみが感じられた。

 静かな声で、洋一は続ける。


「奥方も、まだ若いのに独り身になってしまってね。可哀想に……筒井つついも奥方とは大層仲が良かったはずなんだが、どうしてあんな事をしてしまったのか」


 伽奈はコップに伸ばしかけていた手を止めた。


「……あの、その人って、ひょっとして江ノ島えのしま高校の先生だった?」

「知っているのか?」

「と、友達……が、話してたから」


 動悸がうるさく伽奈の耳元で鳴り始めていた。そっと周囲を窺ったが、仄のいる様子はない。

 奥方、と父親はそう言った。だとすると、やはり、仄との関係は秘密のものだったのだ。仄は彼に妻がいることを知っていたのだろうか?


 ――多分、知っていたのだ、と伽奈は思う。何もかも、仄は知っていたに違いない。


「……その先生は、どうして自殺してしまったんだろう」

「……うん」


 洋一は目を伏せ、かつかつと短い爪でシチューの入った皿を叩いた。かつての教え子の顔を思い出すように、ゆっくりとした口調で。


「実はな、あいつの教え子が春に自殺してしまったようなんだ。それをあいつは、ずっと気に病んでいたらしい。――……それで自分が死んでも、何の意味もないのにな」






***






 部屋に戻っても、仄の姿はなかった。伽奈は窓を開けて外に身を乗り出してみたが、暗い住宅地のどこにも幽霊の少女はいなかった。


 ――ひょっとしたら、もういなくなってしまったのだろうか。


 そんな予感が、伽奈の胸に鉛のように落ち込んできた。入り込んできた夜風の寒さに震え、伽奈は窓を閉める。壁にかかった時計を見ると、時刻は八時を回っていた。理由の分からない不安にさいなまれ、伽奈はうろうろと部屋の中を動き回る。


(結局仄には、何も言えていないままなのに)

(勝手に現れて、勝手に消えてしまうなんて)


 そんなの許せない、と伽奈は思った。拳をきつく握りしめる。仄を許せないのか、自分が許せないのか――そのどちらともかもしれない。ともかく、このまま消化不良の状態で別れ別れだなんてごめんだ。


 伽奈はクローゼットの扉を開けた。ずっしりと重たげにハンガーにかかっている一着を取る。


――漆黒の、ゴシックロリータのドレス。


 それは伽奈にとって、いつの頃からか最上の武装だった。学校の制服を着ていると、どうしても軍隊の一員になったような気がしてしまう。周囲と同じ格好をしていると、逆に自分の異物感が浮き彫りになるような、そんな気がするのだ。けれどもこの服は違う。母のぬくもりに包まれれば、伽奈はどこまでも強く自分を保つことができるようだった。

 例え、それが実質は母を想う喪服のようなものだったとしても。

幾層ものフリル、結ばれたリボン、繊細なレース、その一つ一つが、伽奈を強くした。伽奈に自信を与えてくれた。


 制服を脱ぎ捨て、黒い衣装に袖を通す。緩んだ髪を結び直し、ゴムの上からドレスと同色のリボンを巻く。そして完成した自分を姿見に映すと、伽奈は薄く息を吸い込んだ。

 専用の、これもまた黒く分厚いコートを羽織ると、伽奈は自室を出て階段を下りた。すると、偶然廊下に出てきていた洋一に遭遇した。洋一は伽奈の姿を見ると、僅かに眉を寄せた。


「……こんな時間から出て行くのか?」

「どうしても行かなきゃいけないの。友達を探さなきゃ」


 友達、という言葉は、自分でもまだ言い慣れなかった。伽奈の言葉に洋一は押し黙る。何を言われても伽奈は出て行くつもりだったが、ややあって洋一が口にしたのは、予想外の言葉だった。


「あまり遅くなるようなら連絡しなさい。車で迎えに行くから」

「……、うん。ありがとう」


 何だか目頭が熱くなるような気がして、伽奈は慌てて父親に背を向けた。

 会話をすることも、まして一緒に何かをすることもほとんどない。けれども、お互いを嫌いなわけでは決してない。それどころか、内心では大切に思い合っている。今や唯一の親子なのだから。そんな当たり前のようなことを、久しぶりに思い出した気がした。


 伽奈は決して、独りではなかったのだ。


 暗い冬空の下、伽奈は早足に駅への坂道を下った。仄の行き先にあてなど全くなかったが、とにかく今まで二人で通った場所へ行ってみようと思っていた。まずは学校までの道、それから今日行った江ノ島高校への道。


 白い息を吐き出しながら駅へ辿り着くと、会社帰りのサラリーマンやOLがちらちらと伽奈の恰好に目を向けてくるのを感じた。こんな服を着ていると、好奇の視線を突き刺されるのはいつものことだ。今更気にもならない。


 伽奈は電車で学校の最寄り駅へと向かった。家の最寄り駅よりも飲食店やコンビニが多いため、この時間になっても賑やかに人々が行き来している。人波の中に仄の姿が見えないかと、伽奈は目をこらしながら周囲を見渡した。


「――おい、佐江島さえじまッ!」


 唐突に怒鳴るように名を呼ばれ、伽奈は反射的に肩を震わせた。振り返ると――そこにはさかえがいた。いつもの取り巻きのうちの何人か、それに見慣れない男子も二人ほど一緒だ。確か、別のクラスの生徒だったような気がする。

 伽奈は内心舌打ちしたい気持ちで栄たちを睨んだ。今、こいつらに関わっている余裕はないのに。私服に身を包んだ栄は、伽奈に烈火のような視線を固定したまま近付いてくる。


「あんた、昨日はよくもやってくれたよねぇ。相変わらずコスプレみたいな恰好してさあ」

「……わたしは何もやってない。分かってるでしょ」

「ふざけんな! あんたが何か変なことしたに決まってる!」


 栄は唐突に距離を詰め、伽奈の腕を掴んだ。咄嗟のことに反応できずにいるうちに、栄は仲間の方へ伽奈を引っ張っていこうとする。振り払おうとしたが、想像以上に栄の力が強い。


「ちょっと、やめてっ――」

「いいから、来いっ……!」

「離して……っ!」


 周囲の人々は何事かと伽奈たちに目を向けるが、子供の喧嘩だと察して無視するか、好奇心でちらちらと愉快げに見てくるだけで何の役にも立たない。


「ゆ、ユミぃ、いいの?」

「うわー、女ってこえぇ」

「ちょっと! こいつのせいであたしがケガしたのよ!? あんたたちも手伝ってッ!」


 栄の剣幕に圧され、女子たちはおっかなびっくり、男子たちはにやにやと揉み合う二人に近付いてくる。伽奈は力を込めて栄の手から逃れようとしたが、背後に回り込んだ一人の男子に両肩を軽く掴まれ背中が粟立った。


「いやっ――」


 そもそも伽奈は大して体力もなければ力も強くない。男子にむやみに触られたくなくて身をよじっている隙に、駅のすぐそばにある小さな公園まで引きずられてしまった。夜の公園など、ベンチで酔っ払いが缶ビール片手にぼんやりしている他に人気ひとけはない。駅前の喧騒から少し遠ざかった暗がりの中、ちかちかと明滅する街灯が伽奈の焦りを増長させる。


 公衆トイレの脇の一際ひときわ暗い一角に、栄たちは伽奈を突き飛ばした。栄の刺すような憎悪と、取り巻きたちの悪意に満ちた好奇心が伽奈を取り囲む。しかし、何をされるのかという恐怖よりも、それよりも一刻も早く仄を探さなくてはという焦燥が先に立っていた。


「ねぇ、あんた、マジでキモいんだよ。分かる?」


 栄の憎々しげな視線に、伽奈は怯むことなく真っ向から睨み返した。それが栄の神経を逆撫でしたらしく、唐突に伽奈のこめかみあたりに平手が飛んできた。

 ばしん、と鈍い音が頭で弾ける。女子たちが息を呑むのが伽奈の耳に届いた。


 ――だけど、こんなの、痛くもなんともない。


 他人に、それも栄のような人間に、今更自分が容易く精神を傷付けられるのは、伽奈のプライドが許さない。

 なおも伽奈が睨みつけるのをやめないので、栄は顔を紅潮させた。


「佐江島――」

「――……気が済んだら早くどいて。わたしはあなたたちに構ってる暇ないの」

「なっ……!」


 苛立ちが、伽奈の言葉を尖らせる。再び平手が飛び、伽奈のきっちりと結い上げた髪が乱れて顔にかかった。思わず殴り返したくなるが、伽奈は拳を固く握って衝動に耐えた。食いしばった歯の隙間から、白い息が漏れる。


「あなたがわたしを嫌いなら、放っとけばいいでしょう。わたしに構わないで」

「偉そうに……!」


 激高した栄は、激情のままミニスカートを履いた足で伽奈を思い切り蹴りつけた。


「っ!?」


 流石にふいを突かれ、伽奈は冷たい公園の地面に尻もちをつく。蹴られた腹部の痛みよりも、大切な服が汚れたことに怒りを感じた。しかし、仰いだ視界に再び振り上げられた栄の足が映り、反射的に腕を上げて顔を庇う。


「……っ」


 ――しかし、どれだけ待っても予想した衝撃が来ない。


「お、おい、あれ」

「ゆ、ユミっ……」


 何故か、怯えた様子の声が聞こえた。伽奈はそっと上げていた腕を下ろし、栄たちを見上げる。栄たちはもはや、伽奈を見ていなかった。全員揃って伽奈の背後を凝視している。


 ひっ、と栄が息を呑み、一歩後ずさった。それにつられるように、皆がじりじりと後退し、伽奈から遠ざかっていく。


 伽奈はその様子を、尻もちをついたまま見つめていた。やがて栄たちはきびすを返し、明るい駅の喧騒の方へと早足に去っていく。口々に混乱した様子の言葉をかけ合いながら。やがて栄たちの姿は、遠くの群衆に紛れていった。


 しばらくそれを目で追っていたが、ややあって伽奈はゆっくりと立ち上がった。服についた土を丁寧に払い落とし、後ろを振り向く。


 公園の一番暗い場所に、その幽霊の少女は一人佇んで、伽奈を見つめ返していた。

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