第六章 夜深く(1)
家に入るなり、
キッチンでは、
「ただいま」
父の背に向かって返事をし、鞄を適当な隅に置く。コートを脱ぎながら、そういえば、二人でゆっくり夕食を食べるのは久しぶりかもしれない、と伽奈は思った。
かちんと音を立てて火を止め、洋一がようやく振り返る。
「着替えなくていいのか?」
「あ……うん。今日はこのまま食べる」
「そうか」
食器棚から二人分の皿を取り出す洋一に、伽奈もコップを出して茶を
「いただきます」
お互い、独り言のようにそれぞれ呟いてスプーンを取った。それからどちらも一言も発さず、時折食器の触れ合う硬質な音だけが鳴る。いつもの食卓だ。しかし今日の伽奈は、何故か無性に何かを話したくてたまらない気持ちだった。
「――この前、お葬式に行ってたの?」
必要な連絡事項ではなく、単なる雑談とも言うべき質問に、洋一は驚いたように目線を上げた。伽奈はその視線にささやかな緊張を見てとった。緊張していたのは、伽奈も同じだったが。
少しの間をおいて、伽奈が予想していたよりも穏やかな口調で洋一は答えた。
「通夜だよ。昔の教え子でね。まだ若かったんだが」
「そう……」
「高校で現文を教えていたんだが、しばらく心を病んでしまっていたようでね。自殺してしまったんだ」
「え――」
自殺。ここ数日でいやに身近に感じるようになってしまったその言葉に、自然と伽奈は反応した。洋一の表情は淡々としたものだったが、伽奈の目にはその目尻の疲労に静かな悲しみが感じられた。
静かな声で、洋一は続ける。
「奥方も、まだ若いのに独り身になってしまってね。可哀想に……
伽奈はコップに伸ばしかけていた手を止めた。
「……あの、その人って、ひょっとして
「知っているのか?」
「と、友達……が、話してたから」
動悸がうるさく伽奈の耳元で鳴り始めていた。そっと周囲を窺ったが、仄のいる様子はない。
奥方、と父親はそう言った。だとすると、やはり、仄との関係は秘密のものだったのだ。仄は彼に妻がいることを知っていたのだろうか?
――多分、知っていたのだ、と伽奈は思う。何もかも、仄は知っていたに違いない。
「……その先生は、どうして自殺してしまったんだろう」
「……うん」
洋一は目を伏せ、かつかつと短い爪でシチューの入った皿を叩いた。かつての教え子の顔を思い出すように、ゆっくりとした口調で。
「実はな、あいつの教え子が春に自殺してしまったようなんだ。それをあいつは、ずっと気に病んでいたらしい。――……それで自分が死んでも、何の意味もないのにな」
***
部屋に戻っても、仄の姿はなかった。伽奈は窓を開けて外に身を乗り出してみたが、暗い住宅地のどこにも幽霊の少女はいなかった。
――ひょっとしたら、もういなくなってしまったのだろうか。
そんな予感が、伽奈の胸に鉛のように落ち込んできた。入り込んできた夜風の寒さに震え、伽奈は窓を閉める。壁にかかった時計を見ると、時刻は八時を回っていた。理由の分からない不安に
(結局仄には、何も言えていないままなのに)
(勝手に現れて、勝手に消えてしまうなんて)
そんなの許せない、と伽奈は思った。拳をきつく握りしめる。仄を許せないのか、自分が許せないのか――そのどちらともかもしれない。ともかく、このまま消化不良の状態で別れ別れだなんてごめんだ。
伽奈はクローゼットの扉を開けた。ずっしりと重たげにハンガーにかかっている一着を取る。
――漆黒の、ゴシックロリータのドレス。
それは伽奈にとって、いつの頃からか最上の武装だった。学校の制服を着ていると、どうしても軍隊の一員になったような気がしてしまう。周囲と同じ格好をしていると、逆に自分の異物感が浮き彫りになるような、そんな気がするのだ。けれどもこの服は違う。母のぬくもりに包まれれば、伽奈はどこまでも強く自分を保つことができるようだった。
例え、それが実質は母を想う喪服のようなものだったとしても。
幾層ものフリル、結ばれたリボン、繊細なレース、その一つ一つが、伽奈を強くした。伽奈に自信を与えてくれた。
制服を脱ぎ捨て、黒い衣装に袖を通す。緩んだ髪を結び直し、ゴムの上からドレスと同色のリボンを巻く。そして完成した自分を姿見に映すと、伽奈は薄く息を吸い込んだ。
専用の、これもまた黒く分厚いコートを羽織ると、伽奈は自室を出て階段を下りた。すると、偶然廊下に出てきていた洋一に遭遇した。洋一は伽奈の姿を見ると、僅かに眉を寄せた。
「……こんな時間から出て行くのか?」
「どうしても行かなきゃいけないの。友達を探さなきゃ」
友達、という言葉は、自分でもまだ言い慣れなかった。伽奈の言葉に洋一は押し黙る。何を言われても伽奈は出て行くつもりだったが、ややあって洋一が口にしたのは、予想外の言葉だった。
「あまり遅くなるようなら連絡しなさい。車で迎えに行くから」
「……、うん。ありがとう」
何だか目頭が熱くなるような気がして、伽奈は慌てて父親に背を向けた。
会話をすることも、まして一緒に何かをすることもほとんどない。けれども、お互いを嫌いなわけでは決してない。それどころか、内心では大切に思い合っている。今や唯一の親子なのだから。そんな当たり前のようなことを、久しぶりに思い出した気がした。
伽奈は決して、独りではなかったのだ。
暗い冬空の下、伽奈は早足に駅への坂道を下った。仄の行き先にあてなど全くなかったが、とにかく今まで二人で通った場所へ行ってみようと思っていた。まずは学校までの道、それから今日行った江ノ島高校への道。
白い息を吐き出しながら駅へ辿り着くと、会社帰りのサラリーマンやOLがちらちらと伽奈の恰好に目を向けてくるのを感じた。こんな服を着ていると、好奇の視線を突き刺されるのはいつものことだ。今更気にもならない。
伽奈は電車で学校の最寄り駅へと向かった。家の最寄り駅よりも飲食店やコンビニが多いため、この時間になっても賑やかに人々が行き来している。人波の中に仄の姿が見えないかと、伽奈は目をこらしながら周囲を見渡した。
「――おい、
唐突に怒鳴るように名を呼ばれ、伽奈は反射的に肩を震わせた。振り返ると――そこには
伽奈は内心舌打ちしたい気持ちで栄たちを睨んだ。今、こいつらに関わっている余裕はないのに。私服に身を包んだ栄は、伽奈に烈火のような視線を固定したまま近付いてくる。
「あんた、昨日はよくもやってくれたよねぇ。相変わらずコスプレみたいな恰好してさあ」
「……わたしは何もやってない。分かってるでしょ」
「ふざけんな! あんたが何か変なことしたに決まってる!」
栄は唐突に距離を詰め、伽奈の腕を掴んだ。咄嗟のことに反応できずにいるうちに、栄は仲間の方へ伽奈を引っ張っていこうとする。振り払おうとしたが、想像以上に栄の力が強い。
「ちょっと、やめてっ――」
「いいから、来いっ……!」
「離して……っ!」
周囲の人々は何事かと伽奈たちに目を向けるが、子供の喧嘩だと察して無視するか、好奇心でちらちらと愉快げに見てくるだけで何の役にも立たない。
「ゆ、ユミぃ、いいの?」
「うわー、女ってこえぇ」
「ちょっと! こいつのせいであたしがケガしたのよ!? あんたたちも手伝ってッ!」
栄の剣幕に圧され、女子たちはおっかなびっくり、男子たちはにやにやと揉み合う二人に近付いてくる。伽奈は力を込めて栄の手から逃れようとしたが、背後に回り込んだ一人の男子に両肩を軽く掴まれ背中が粟立った。
「いやっ――」
そもそも伽奈は大して体力もなければ力も強くない。男子にむやみに触られたくなくて身をよじっている隙に、駅のすぐそばにある小さな公園まで引きずられてしまった。夜の公園など、ベンチで酔っ払いが缶ビール片手にぼんやりしている他に
公衆トイレの脇の
「ねぇ、あんた、マジでキモいんだよ。分かる?」
栄の憎々しげな視線に、伽奈は怯むことなく真っ向から睨み返した。それが栄の神経を逆撫でしたらしく、唐突に伽奈のこめかみあたりに平手が飛んできた。
ばしん、と鈍い音が頭で弾ける。女子たちが息を呑むのが伽奈の耳に届いた。
――だけど、こんなの、痛くもなんともない。
他人に、それも栄のような人間に、今更自分が容易く精神を傷付けられるのは、伽奈のプライドが許さない。
なおも伽奈が睨みつけるのをやめないので、栄は顔を紅潮させた。
「佐江島――」
「――……気が済んだら早くどいて。わたしはあなたたちに構ってる暇ないの」
「なっ……!」
苛立ちが、伽奈の言葉を尖らせる。再び平手が飛び、伽奈のきっちりと結い上げた髪が乱れて顔にかかった。思わず殴り返したくなるが、伽奈は拳を固く握って衝動に耐えた。食いしばった歯の隙間から、白い息が漏れる。
「あなたがわたしを嫌いなら、放っとけばいいでしょう。わたしに構わないで」
「偉そうに……!」
激高した栄は、激情のままミニスカートを履いた足で伽奈を思い切り蹴りつけた。
「っ!?」
流石にふいを突かれ、伽奈は冷たい公園の地面に尻もちをつく。蹴られた腹部の痛みよりも、大切な服が汚れたことに怒りを感じた。しかし、仰いだ視界に再び振り上げられた栄の足が映り、反射的に腕を上げて顔を庇う。
「……っ」
――しかし、どれだけ待っても予想した衝撃が来ない。
「お、おい、あれ」
「ゆ、ユミっ……」
何故か、怯えた様子の声が聞こえた。伽奈はそっと上げていた腕を下ろし、栄たちを見上げる。栄たちはもはや、伽奈を見ていなかった。全員揃って伽奈の背後を凝視している。
ひっ、と栄が息を呑み、一歩後ずさった。それにつられるように、皆がじりじりと後退し、伽奈から遠ざかっていく。
伽奈はその様子を、尻もちをついたまま見つめていた。やがて栄たちは
しばらくそれを目で追っていたが、ややあって伽奈はゆっくりと立ち上がった。服についた土を丁寧に払い落とし、後ろを振り向く。
公園の一番暗い場所に、その幽霊の少女は一人佇んで、伽奈を見つめ返していた。
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