幕間 とある春のタブラ・ラサ
――穏やかな日だった。ウルトラマリンの絵の具を薄めたような澄んだ空。雲はほとんど見当たらない。風は暖かく、花の匂いを運んでいた。
私はその時、人生で一番空に近い場所にいるような気がしていた。
少し錆びたフェンスを握るとつんと鉄の臭いがしたが、今更気にするものでもない。下方から吹き上がった春風は、私の丈の長いスカートを大きくはためかせた。濃紺の生地が空を切る。同じように長い髪が視界を覆い、私は片手をそっとフェンスから離し、邪魔な髪を耳にかけた。
がちゃがちゃ、と遥か後方で扉の開く音がした。私は振り返る。
――そこには彼が、息を切らして立っていた。
立ち尽くしていた、と言った方が正確かもしれない。肩を上下させ、呼吸を乱しているにも関わらず、彼の目はいつもの妙に冷淡な目だったので、私は何故だか嬉しくなった。
「――
そう、彼はどんな時でも私をそう呼んだ。授業中に私を指名する時も、出席を取る時も、二人きりで車に乗っている時も、夜の海を眺めた時も。
いつだって、そこには線が引かれていた。私はそれ以上踏み込むのを許されていなかった。そもそもが逸脱した関係にあって、無駄な足掻きだと思ったこともある。けれども彼は決してその線を越えようとはしなかったし、私に越えさせてもくれなかった。
私は彼の恋人だった。――私からしてみれば。
彼が私を実際どう思っていたのか、遂に私は分からなかった。
ただ厄介な子供を上手くあしらいきれず、ここまで来てしまったのだろうか?
だから彼は今、どこかほっとしているように見えるのだろうか?
「先生」
彼は十歩、距離を詰めてそこで立ち止まった。無表情ではあったが、何がこの状況において最善なのか、考えあぐねているようでもあった。
「私ねえ、愛しているわ、先生のこと」
「……ああ」
肯定。それは、ただの肯定だ。
受容でも拒絶でもない、ただの肯定。
そのただの肯定に、私は甘えてここまで来てしまった。不器用なだけの大人の弱みをついて、頭のおかしな可哀そうな少女を演じて。
そう、被害者は常に彼だった。
それなのに、私はまだ彼に痛みを負わせようとしている。
――でもまあ、これで最期だから。
「結局一度も、名前で呼んでくれなかったわね」
笑ってそう言うと、意外なことに返事があった。
「お前も、私を名前では一度も呼ばなかっただろう」
――そうか。そうだったかもしれない。
それは多分、彼の線より向こう側へ踏み込むのを、自分でも恐れたから。なんだ、私だって怖がっていたのか。こんな結末になった今ですら、私たちはお互いの距離を几帳面に保っている。そのことがひどく可笑しくて、私は笑った。
「お前は不器用だ」
誰がどう聞いても不器用な口調で、そんなことを言う。
私は彼の瞳をじっと覗き込んだ。何も見えない。私には、何も。彼は、勉強と、この感情がこんなにも苦しいものだということ以外は、何も教えてくれなかった。結局私はこの感情を持て余し、最終的には爆発させてしまった。
いや、爆発させようとしているのか。今ここで。
「あと、私は頑固よ」
「知っている」
「じゃあ、何しに来たの?」
「……お前の望んだ通りに、見に来たんだ」
私は笑う。可笑しくて、嬉しくて、悲しくて。
妙なところで律義な人だ。何事もなかったように私を無視し続けることだってできたはずだ。そうしていれば、私は彼の人生から一人で勝手にフェイドアウトしたことになったのに。
二人とも、社会的に見れば、許されないことをしたのだろう。
特に社会は、成人である彼に責任を重く押し付ける。全ては私のせいなのに。それを拒絶しなかったのが罪であると、全部彼のせいにしてしまうのだろう。
彼のせいにするということは、私のこの思いがなかったことになるということだ。
そんなの
「――……
最期に名前を呼ぼうかと思ったけれど、やっぱりできなかった。
私はフェンス越しに、彼に笑いかける。
そう、私は笑っていたのだ。
「愛しているわ」
私は、そしてフェンスから手を離す。
愛しくて、愛しくて、愛しくて、それがあまりにも苦しくて、耐え切れなくなったのだ。彼と私の間にある、永遠に埋まらない距離が、痛くて痛くてどうしようもなくて。
なかったことにはしたくなくて。
だからといって、何ができるわけでもなくて。
結局、彼が言う通りに、私は不器用だったのだろう。
こうすれば、距離は一生埋まらなくても、彼の中には私が残り続けると思って。それだけを願った。
彼の、一生消えない痛みになりたかった。
愛しているから。
身体を空気が受け止める。花の匂い。春風だ。
髪が舞う。
フェンス越しに、彼の姿が見える。
彼の表情が見える。
これで彼に、癒えない傷として私という存在を刻めたかと思うと。
私は嬉しくて。
笑って。
青空へと落ちていく。底なしの青空へ。
「――――――」
彼が何かを言った気がしたけれど、私はそれより早く落下する。
最期に見た彼は、私と同じように笑っていた。
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