第五章 冬の日/真実とその向こうにあるもの





 翌日、伽奈かなが目を覚ますと隣にはほのかがいた。

薄暗がりの中、横たわったまま猫のように伽奈をじっと見つめているものだから、驚いて固まってしまう。その様子を見て、仄はにやあ、とあのチェシャ猫の笑みを浮かべた。


――あんな話をして、いつの間にか眠ってしまったものだから、何となく気まずかったのだが。


 仄の方は何を考えているやら、いつもの町久仄のままだった。そのことに、伽奈もようやくいつもの自分を取り戻す。


 その日は学校にいても妙に気はそぞろで、つまらない授業が更に長く感じられた。昨日仄に階段から突き落とされたさかえは欠席していた。実際、怪我はそこまで大したことはなかったらしいが、精神的ショックを受けて家で休んでいると担任が朝のHRホームルームで説明していた。女子生徒らが同情の声を上げるのに、何が精神的ショックだ馬鹿馬鹿しい、と伽奈は内心で吐き捨てていたが。

 ともかく、栄がいないのは都合がよかった。栄の取り巻きたちは伽奈を警戒しているのか、いつもより遠巻きで直接的には何もしてこない。伽奈は落ち着いて放課後のプランを練ることができた。


 ――そして、終業のホームルームが終わった瞬間、伽奈は自分の荷物を引っ掴んで誰よりも早く教室を出た。


 仄と電車に乗る。いつも降りる自宅の最寄り駅を通過して、その三つ先のまだ一度も足を踏み入れたことのない駅を目指す。仄が通っていた、松ノ江まつのえ高等学校の最寄り駅だ。

 駅に着くと、ちょうどこちらも下校時間で、冬用のセーラー服や学ランに身を包んだ生徒たちでごった返していた。その流れに逆らうように、地図を確認しながら件の高校へ向かう。幸い駅から徒歩十分もかからない場所にあり、伽奈と仄は生徒たちが次々に流れ出てくる校門が見える場所で立ち止まった。


 伽奈は自分の服装をちらりと確認する。今日は、普段着ている制服の上から、丈の長いダッフルコートを着込んでいた。傍目から制服が見えないようにするためだ。これで、仮に不審と思われても、自分の身元は容易くばれずに済む。仄はそんな伽奈の様子を、珍しく何も言わずに見守っていた。


 人波が少し途切れかけたところで、伽奈は意を決して踏み出した。話しかけやすそうな、恐らく同学年くらいと思しき二人組の女子生徒に狙いを定める。


「――あの、ちょっといいですか」


 突然知らない生徒から話しかけられ、二人の女子生徒は驚いてお喋りを中断し、伽奈を怪訝な顔で見返した。


「……舞ちゃん、知り合い?」

「ううん……知らない」

「……あ、あの、ちょっと聞きたいことがあるんですけど」


 緊張で伽奈の声がかすれる。同じ学校の生徒ではないのだからどう思われたって構わない、と自分に何度も言い聞かせ、目的の情報を聞き出そうと急いで言葉を続けた。


「わたし、この学校の生徒じゃないんだけど。春に自殺した、町久まちひさって女子、知ってます? あの子の……知り合い、だったんだけですけど」

「まちひさ……?」

「……直接は知らないけど、友達がテニス部だったんで、話だけ知ってますけど」


 片方の女子生徒が答えた。自殺した生徒の知り合いと聞いて、先ほどと比べると若干表情の険は和らいでいた。ややあって、もう一人の女子生徒も声を上げる。


「――ああ! なんかしばらく騒いでたよね。思い出した」

「うん。優しくていい先輩だったのにって、友達は落ち込んでましたけどね」


 後半は伽奈に向けて言い、女子生徒はボブカットの髪を揺らして首を傾げた。指を顎に当て、記憶を思い出すような仕草をしながら続ける。


「でも、私は直接知らないんで、あんまり……ええと、確か屋上から飛び降りたってことしか」

「そう……」


 成果はゼロに近い。他の生徒に聞き込みを続けるべきか、と伽奈が頭を下げてその場を離れかけた時、しばらく考え込んでいたもう一人の女子生徒が口を開いた。


「ねえ、夏にもなんか騒いでなかったっけ? 先生たち。自殺じゃなかったっけ?」

「自殺だよ。同じ生徒じゃないとは言え、立て続けだったから先生たちもピリピリしちゃって……保護者から色々言われたらしいし」

「ふうん。ま、そりゃそうかー」

「――じ、自殺って? 夏にも?」


 何かが引っかかり、反射的に伽奈はそう尋ねていた。隣で仄がじっと聞き耳を立てている。

 周囲の生徒たちを気にしながら、少し声を落として女子生徒は答える。


「はい。春にその先輩が自殺しちゃった後、夏に急に先生が一人、同じように飛び降りちゃったんです。ノイローゼらしい、とか聞いたんですけど。人気の先生だったのに」

『伽奈』


 しばらくぶりに、仄が口を開いた。伽奈ははっとして振り向きそうになるが、すんでのところで堪える。しかし、何故か嫌な焦燥感が心臓のあたりをちりちりとくすぐっていた。


 ――聞くんじゃなかった。


 理由は分からないが、直感的に伽奈はそう思った。しかし、もう遅すぎた。目を向けない先で、仄がぽつりと呟くように言う。


『名前を、聞いて』


 伽奈は生唾を飲み込んだ。


「……その先生、名前は?」


 問われた女子生徒は、一瞬眉をひそめて記憶をたぐり寄せようとするような表情を見せた。ややあって、「あ、思い出した」と嬉しそうに笑う。


筒井つつい先生っていう人です。現文の」


 仄が何も言わなかったので、伽奈は今度こそ二人の元から立ち去った。人気の少ない路地に入り、仄の表情を確認するべく振り返る。


 仄はしばらく、ぼうっとしたような呆けた表情を浮かべていた。生気のない目で伽奈を見つめ、長い髪とスカートの裾を揺らめかせて立ち尽くしている。

 それから、ふいにその口端が緩んだ。「ふ、」と吐息のような声が漏れる。仄は自分を抱えるように両腕を掴み、崩れ落ちるようにしゃがみこんだ。伽奈がどうするべきかたじろいでいると、仄は小刻みに震え始め、


『――……ふ、あははははははははははははは!!』


 喉が張り裂けるように、笑った。


 その笑声に、伽奈は首を絞められたような心地がした。こんなに苦しい笑い声は、今まで聞いたことがなかった。仄は尚も笑いながら背を仰け反らせた。伽奈以外、誰にも聞こえない声が路地に霧消する。


『何で死んでるの? 何で? 意味が分からないわ。死んだのは私なのに――私が死んだのに! あの人の前で、死んだのに! あの人は、あの人は――筒井先生は――』


 仄と伽奈の視線がかち合った。泣いているかもしれない、と伽奈は思っていたが、仄は涙の一滴も流していなかった。ただ暗い瞳が、ここではないどこかを凝視していた。長い髪が路地の地面にばさりと投げ出され、伽奈の足下まで広がっている。


『あの人が死んだら意味ないじゃない。だって私は、私が死んだのは――』


 ふと、声が途切れた。伽奈が言葉を差し挟むタイミングを逃し続けているうちに、仄はゆらりと立ち上がった。能面のように青白い顔をしている。

 仄は伽奈の方を見たが、どこか焦点がずれているようで、視線は噛み合わなかった。こんな時に、何を言うのが適切なのか、伽奈には思い浮かばなかった。友達がいないからだろうか。友達がいないから、こんな時に人にかけるべき言葉さえ分からないのだろうか。


 ――何か、言ってあげたいのに。


『――伽奈、ありがとう。もう帰りましょう』

「……え、でも、……いいの?」

『ええ。これ以上、特に知りたいことはないもの』

「……そう」


 うっすらと微笑を浮かべて、仄は伽奈を促した。そう言われてしまっては伽奈も何も言うことはできず、頷いて駅の方へと歩き始める。

 伽奈は歩きながら仄の表情を盗み見たが、やはり何を考えているのか分からなかった。仄の考えなど読めた試しがなかったが、今はことさら分からない。


(……仄はわたしにとって、何なんだろう)

(仄はわたしのこと、どう思っているんだろうか)


 他人に対して、そんなことを久しく考えたことはなかった。二人で電車に揺られている間、仄は一言も話さなかった。伽奈は無言の中で、自分の左手首をコートの上から撫でた。そういえば、昨日は切っていないな、とぼんやり思う。


 二人して黙り込んだまま、すっかり暗くなった坂道を上った。一歩踏み出すたびに、白い息がもやのように生まれてはかき消えていく。二人でいるのに、まるで一人きりで歩いているように伽奈には感じられた。恋人のことを知るのが望みだったのならば、仄はもうそれを叶えたことになる。ならば、仄はもう伽奈の元からいなくなるのだろうか。

 幽霊なのだから、そもそも存在しているのがおかしいのだ、と伽奈は自分に言い聞かせた。直後に、何故こんなことを言い聞かせなくてはならないのかと気付く。まるで仄にいなくなって欲しくないようではないか。


 仄、と呼びかけようとして、しかしどうしても声が喉でつっかえて出なかった。こんな時にまで、伽奈のプライドは自分の邪魔をしていた。


(確かにわたしは、仄の言う通り莫迦ばかなのかもしれない)


 高台を、二人は何も言わずに通り過ぎた。伽奈がちらりと高台の方を振り返ると、夜に覆われかけた街はぽつぽつと明かりを灯し始めていた。遥か向こうの山間の上、一番星が無言で伽奈を見返している。

 一際冷たい風が吹き、伽奈の頬の表面を凍らせるように撫でていった。その風は仄の髪の一房すら揺らすことなく、二人の後方へと吹き抜けていく。

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