第四章 少女はふたりきり(2)






「じゃあ、さかえが一人で勝手に落ちてきたって言うのか?」


 疑念を隠そうともしない教師の言葉に、伽奈かなは苛立ちを押し殺したつとめて冷静な声で、もう五回は繰り返した答えを返す。


「だから、多分足を滑らせたんだと思います。怒ってこっちに下りて来ようとしていたので、足下を見ていなかったんだと」

「だけど栄は、しきりに佐江島さえじまがどうとか言っててな」

「でもわたしは下にいました」

「まあ、そういう話もあるんだけどな」


 どう聞いたって、教師は栄の肩を持っている。伽奈にはその理由が分かっていた。この担任教師は、栄たちのグループと伽奈の関係には薄々気付いている。勿論彼女たちも教師の前で大っぴらに伽奈にちょっかいを出しはしないものの、半年以上も担任をやっていて教室の微妙な空気を感じ取れないほど無能な教師でもなかった。しかし、栄は明るく友人も多いし、成績はそこそこだが教師たちとも積極的に交流する。一方の伽奈は、暗く、いつも一人で、真面目ではあるものの何を考えているか分からない。

 癪ではあるが、仮にここで伽奈が怒りを露わにしたところでメリットはなく、むしろ状況を不利にするだけだ。伽奈はひたすら抑揚のない声で、自分の無罪を繰り返した。栄にだって分かっているはずなのだ。あの距離で、階段下にいた伽奈がどうやって踊り場の栄を後ろから突き落とせるというのか。


 ようやく解放された時、時刻は午後六時を回っていた。


 失礼しますと溜息交じりに呟いて職員室を出ると、窓の外は既に暗かった。それまで職員室内をうろうろと漂っていたほのかが寄ってきて、伽奈は内心少し慄く。先ほどの事件で、仄に対する警戒心は急激に上昇していた。しかし同時に、妙な仲間意識も芽生えかけている。手段はどうあれ、確かに仄は伽奈を助けようとしたのだ。

 仄は職員室を指さして、全く悪びれない表情で言った。


『ねえ、あいつも落としちゃう?』

「バカなこと言わないで」


 周囲に誰もいないことを確認しつつ、伽奈は仄を睨みつけてそう返した。校門に向かって歩き出しながら、低い声で問いただす。


「なんであんなことしたの?」

『あんなこと?』

「あいつを突き落としたこと」

『だって、なんだか鬱陶しかったし。ちょっといい気になってるみたいだったから、痛い目見せてやろうかと思って』

「…………」


 鞄からマフラーを引っ張り出して首に巻く。足下を見ると、街灯に照らされて伽奈の影だけがアスファルトの地面に落ちていた。隣を泳ぐようについてくる仄の長い髪は、暗い寒空にそのまま溶けていきそうなほどに黒い。

 ふいにその仄の目が、伽奈の目を捉えた。睫毛のたっぷりとした切れ長の目だ。夜の底のような瞳に見つめられ、伽奈は視線を逸らせなくなった。


『それに私ねえ、貴女のこと結構気に入ってるの。莫迦ばかだし』

「ば……」


 褒められているのか貶されているのかよく分からない台詞に二の句が継げないでいると、仄はくすくすと笑いだした。からかわれたのだろうか。


 電車に乗った時も、仄は変わらぬ調子で『ねえ私の恰好、上着もないし何だか寒々しくない? どうにかならないのかしら、これ』とか、『そういえば貴女来年受験生じゃないの? そのわりにのんびりしてるわねえ』だとか、益体もないことを一人で喋り続けていた。伽奈はそんな仄の様子を気にしつつも、自分がこの性格の悪そうな幽霊に妙に馴染んできつつあるのを感じていた。


 どうかしている。

 多分自分は、やっぱり本当に頭がおかしくなってしまったのだ。


 けれども心のどこかで、それでもいいかもしれない、とも思う自分がいた。

 どうせ自分ははみ出し者なのだ。今更この程度で、周りとの関わり方や自分への見方が変わるわけではない。


 無意識に左手首の傷跡をなぞりながらそう考えているうちに、電車は目的の駅に到着した。伽奈は浮遊する仄と連れ立って改札口を抜ける。

 等間隔で街灯が立ち並ぶ坂道を、二人は歩いた。たまに車が通りすぎる以外は、ひどく静かだった。日が暮れてから空は晴れ始めたようで、頭上にはいくつか小さな星が瞬いていた。

 高台にさしかかった時、仄がふいに唐突な方向転換をしたので伽奈はたたらを踏んだ。長い髪を風向きとは無関係に靡かせて、仄は高台の方へ漂っていく。


『ここ、景色いいのねえ』


 伽奈もつられて柵の内側から下の方を覗き込んだ。ビルや住宅のまばゆい輝きが、ずっと遠くまで広がっている。ゆったりとした流星のようなテールランプが列をなして尾を引き、一体この風景の中に何百人の人間が存在しているのだろう、と伽奈はぼんやり思った。


 すりガラスを隔てたような僅かに遠い声で、ふと仄が呟いた。


『私、飛び降りたの』

「……え」


 思わず隣に顔を向けると、仄は表情の読めない目を眼下に向けていた。


『学校の屋上だったわ。春の、昼間だった。私はこの制服を着ていて……男の人がいたの。私はその人の前で、飛び降りた』

「…………」

『その人、私の恋人だったの』


 仄の声は、伽奈が初めて耳にするほどの暗い翳を孕んでいた。暗くて、甘い。こういう声を、具体的にどう形容すればいいのか、伽奈には分からなかった。恋人、という言葉が、こんなに複雑な響きを持って発音されるのを伽奈は聞いたことがない。伽奈の周囲で発せられるその言葉は、浮ついていて、べったりと甘くて、時折憧れを持って口にされるものだった。一歳年が違うだけの少女が、こんな表情で、こんな声で囁く言葉ではなかった。

 どこか熱に浮かされたように、仄は一人で喋り続けた。


『でも、私がどんな顔で飛び降りたのか、覚えてないの。その人がどんな顔をしていたのかも覚えてない。何か喋っていたのか、どうしてそこにいたのか、――どうして私が飛び降りたのかも、何も覚えてない。その人の――』


 ほっそりと白い腕を、仄は柵の向こうに伸ばした。


『その人の、名前も、覚えてないの』


 伽奈はしばらく何も言えなかった。仄から視線を外し、遠くの街並みを見つめる。ややあって、再び仄の方に顔を向けて問いかけた。


「それがあなたの望み? その、恋人のことを、知ることが」

『――……そう、かもしれない。そうね』


 仄は呟くように答えて、少しの間夜景を見下ろしたまま黙っていた。それからふと、伽奈の方を見た。


『あの人が今どうしているのか、知りたい』


 何だか迷子の子供みたいな顔だ、と伽奈は思ったが、何も言わずに頷いた。

その仄の表情が、どこか泣き出しそうに見えたから。






***






 帰宅して、伽奈は自室のノートパソコンの電源を入れた。父親から譲り受けたもので、毎日使うわけでもないので普段はケースに入れてしまってある。ネットブラウザから検索エンジンを立ち上げると、とりあえず試しに仄の名前を打ち込んでみた。


「まち、ひさ、ほのか……――流石に何もヒットしないか」

『SNSとか、特にやってなかったんじゃないかしら。私の性格的に』

「だよね……」


 眉を寄せて、伽奈は隣で覗き込む仄に目をやった。名前しか分からないというのは、思ったよりも手がかりにならないらしい。

 何かヒントはないかと仄を観察していると、ふと、セーラー服の胸元あたりに目が留まった。――そこには飾りの小さな胸ポケットが付いている。そしてその表面には、何やらぼんやりと模様のようなものが縫い付けられている……ように、見えた。

 と言うのも、模様は妙におぼろげで、水中から外を見上げた時のような感じというか、目の悪い人が裸眼で見たらこんな感じだろうか、という風に不自然に霞んでいるのだ。このセーラー服が制服に間違いないのなら、位置と雰囲気からして、模様は恐らく校章に違いない。


「それ……その模様、何でぼやけてるの?」

『ん? ……何でかしら。私の記憶が曖昧だからじゃないかしら? 自分の学校の校章なんて、誰もはっきり細部まで覚えてないでしょう?』


 確かに、言われてみればそういうものかもしれない。しかし、これは数少ない重要な手がかりのはずだ。伽奈は目をすがめてみたり、少し離れて見てみたりと、どうにか模様の細部を特定できないかとあれこれやってみたが、長細いパーツの上に大きく入り組んだパーツが乗っているということしか分からなかった。

 少し考えて、「古辺ふるべ市 高校 校章」と打ち込んでみる。可能性として、この市内の高校である確率は高いと踏んだのだ。画像検索に切り替えてみると、たくさんの校章の画像や高校生が制服を着ている写真などがリストアップされる。


「ん――これ、似てるかも……」


 視界の端に引っかかった画像を、伽奈は拡大表示にした。それは複数の女子生徒が笑顔で写っている写真だった。冬服ではあるが、仄のものと似た色合いのセーラー服を着ている。そして同じように胸元に縫われた校章のフォルムは、どことなく仄のそれに似通っていた。

 伽奈はその画像が元々掲載されていたページに飛んだ。どうやらそこは高校の公式サイトで、学校行事などを写真付きで紹介しているページだった。ホームのアイコンをクリックすると、ページが切り替わると同時に画面の上部に大きく校章と学校名が表示された。


 私立松ノ江まつのえ高等学校。


 聞いたことがある。確か、ここから電車で伽奈の学校とは反対方向に三駅ほど行ったところだ。今度は「松ノ江高等学校 自殺」で検索をかけてみる。ページが切り替わる一瞬の空白に、伽奈の心臓がどきんと高鳴った。


「あ……」


 ――古辺市の私立高校で、女子生徒が自殺。


目に飛び込んできた文面に、伽奈は思わず息を呑んだ。ニュースサイトや掲示板がずらりと表示される中、詳しく書いてありそうなものを選んでクリックする。覗き込んできた仄の長髪が垂れ下がり、キーボードに吸い込まれた。


――三月一日、古辺市の私立松ノ江高等学校で、同校に通う女子生徒の自殺とみられる遺体が発見された。生徒は校舎の屋上から飛び降りたものと見られ、遺書の類は見つかっていない。学校は、いじめの事実などは確認されていないとして、詳しい調査を進めている。女子生徒はテニス部に所属しており、友人も多く、家庭内にも特に問題はないとされており――


「……これ、多分仄のことだよね?」

『……そうだと思うわ。……いえ、そう。これは……私』


 仄が透ける指先をパソコンのモニターに伸ばした。その目は食い入るように画面の文字を見つめている。遺書がない、というのは何となく仄らしいと伽奈は思った。しかし、こういう報道の記述は100パーセント当てにはならないとは言え、自殺の動機がさっぱり見えてこない。やはり、自殺現場にいたという『恋人』が鍵なのだろう。検索で出てきた他のページもあたってみたが、それらしき記述はどこにも見当たらなかった。とすると、二人の交際は周囲には秘密だったのだろうか?


「――明日、この高校に行ってみる?」

『…………、意外ね』


 顔を上げ、仄は伽奈の瞳を覗き込んだ。


『貴女はあまり、そういうことはしない子だと思ってた』

「それはそう……だけど」


 自分でも驚いている。けれど――いつも何を考えているかよく分からない仄の、高台で見せたあの妙に寂しげな表情が伽奈の心に引っかかっていた。


 何故、昨日出会ったばかりの仄が気にかかるのだろう。幽霊なのに。生きていないのに。

 それとも自分はおかしい人間だから、幽霊でなければ心を開けないということなのだろうか?


 伽奈は机の隅のカッターナイフを見つめた。毎日毎日自分を傷付けても、自分は死ねない。本当に死にたい、もう死んでしまいたいと思ったことは何度もあった。しかし、決してそれを実行したことはなかった。


 けれども仄は死んだのだ。自ら身を投げたのだ。


 ひょっとしたら自分はそのことを、少しだけ羨ましいと思ってしまっているのかもしれないと、伽奈はそっと唇を噛んだ。






***






 ――その夜、伽奈と仄は二人並んでベッドに横たわっていた。


 どうやら仄は、床や壁など自分がそれと認識した箇所は、あえて通り抜けようと意識しなければうっかりすり抜けてしまうことはないようで、ベッドにもきちんと乗ることができた。浮いているのに乗っている、とは不思議な物言いだが、とにかく透過して床に落ちてしまうようなことはなかった。実際に布団を被ることまではできないので、気分だけではあるのだが。


『ところで貴女、何で虐められてるの? まあ、根暗なのは見て分かるけど』


 遠慮の欠片もない言いぐさだったが、何故だか嫌な感じはしなかった。伽奈は少し顔をしかめて、暗い天井を睨みながら答えた。


「中学までは、別に普通だったわ。高校になって別の中学の子たちが――あの、あなたが突き落とした子たちとかが入ってきてから、陰口を叩かれたりするようになって。付き合っていた子たちは大人しい子が多かったから、自然とみんな離れていって」


 決定的だったのは一年生のころ、休日に伽奈が外出していた時に、ばったりあの栄たちのグループと出会ってしまったことだった。


「……わたし、普段は……ゴシックロリータって、分かる? ああいう服を着ているの。だから、あの子たちが気持ち悪がって――」


 ――佐江島何それ、コスプレ?

 ――気持ちわるっ、なんかオタクくさいし。


 そう嘲笑され、まだそこまで直接的に悪意の言葉をぶつかられ慣れていなかった伽奈は、負けじと罵詈雑言を返した。結局駅前で大喧嘩になり、全員まとめて補導されかける羽目になった。

 それからだ。彼女たちの伽奈に対する行為が苛烈になったのは。


『ふうん。本当に莫迦なのね、貴女』

「うるさい」

『で、手首を切るのは何でなの?』

「それは……――」


 それは。


 残念ながら――毎日飽きもせず悪意をぶつけられ、精神に1ミリのぶれもなく平静を保てるほどには、伽奈は強くはなかった。正直なところ、初めのうちはもう二度と学校に行きたくないと思いさえした。

 それを始めたのに、確固たる理由はなかった。ただ、翌日学校へ行くことを考えると、眩暈と吐き気が治まらなくて。救いを求めて視線をさまよわせた時、たまたまペン立てに入れてあったカッターナイフが目についた。


 細かいことは覚えていない。気付いたらその刃を手首に滑らせていた。


 焼かれるような痛みと、滲み出る赤い血を見ていたら、奇妙に気持ちが安らいだ。行為の頻度は次第に増え、左手首はあっという間に傷で埋まった。その見た目はひどく醜かったが、やめるきっかけも失われていた。


『つまり、やっぱり莫迦なのね、貴女って』

「……そうかもね」


 こんなことを、他人に話すのは初めてだった。他人どころか、父親にさえ何も言っていないのに。

 もしも母親がいたら、話しただろうか。きっと伽奈の性格上、ひた隠しにするだろう。けれど、母ならば言わずとも気付いてくれたかもしれない。伽奈の話を、こうやって静かに聞いてくれたかもしれない。

 そう思うと、無意識に目頭が熱くなった。伽奈は喘ぐように息を吸い、必死にそれが溢れ出すのを止めようとした。


『莫迦ねえ……』


 仄の繰り返すその言葉に、どういう意味が込められていたのかは伽奈には分からなかった。

 ただ、あまりにその声色が優しくて、耳を塞ぎたくてたまらなかった。

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