第一章 冬の日(1)






 佐江島伽奈さえじまかなの朝は、戦闘準備から始まる。


 大抵、アラームの五分前には自動的に目が覚めている。伽奈は五分間布団の中で天井を見つめて待ち、アラームが鳴ると同時にそれを消す。顔を洗い、パジャマを脱ぎ、制服のシャツに袖を通す。タイツを履き、くすんだ赤がベースのチェックのプリーツスカートを重ね、同系色のリボンを胸元につける。防寒のため、更に薄手のセーターを着込んだ。そして鏡の前へ行き、ずっしりと重たい黒髪を二つに分けて結う。頭皮が軽く引っ張られるくらいにきつめに結うと、身の引き締まる思いがした。高校の制服を身に着けた自分は、奇妙によそよそしい。けれどもこの緊張感に包まれると、今日も戦う覚悟ができる。僅かにまなじりの吊り上がった自分の両目を鏡越しに睨み、伽奈は踵を返す。

 階段を下りてダイニングに向かうと、既に父の洋一よういちがトーストを食べ始めていた。スーツのジャケットを椅子の背にかけ、新聞を読みながら朝食を摂るいつもの姿。伽奈はそれにちらりと目を向けただけで、コーヒーメーカーに残っているコーヒーを自分のマグカップに注ぎ、食パンをトースターに放り込んだ。


 伽奈を一瞥すらせずに、ふいに洋一が静かな声で言った。


「今晩は、遅くなるから。私の分の夕食はいらない」

「……分かった」


 今日の夕食当番は、伽奈だった。であれば、学校の帰りに何か出来合いのものでも買って帰ろうと考える。チン、と軽快すぎる音を立ててトーストが焼きあがった。伽奈はそれを皿に乗せ、ジャムの瓶とマグカップと共に食卓へと運ぶ。

 伽奈がブルーベリージャムをパンに塗るざりざりという音と、洋一が新聞をめくる乾いた音。それだけが部屋に響いていた。毎朝同じ光景だ。


 やがて洋一が席を立ち、新聞を几帳面に畳むと食器を流しに置いて水を溜めた。ジャケットを羽織り、ソファーに置いていたコートを上から着込んで、「行ってきます」とほとんど独り言に近い声量で口にして家を出て行く。「行ってらっしゃい」とこちらも独り言のように返したが、聞こえたかどうか定かではない。


 傍から見ればこういうものを『冷え切った家庭』と呼ぶのかもしれないが、伽奈からしてみればこれが日常だった。正確には、母が亡くなってからの佐江島家の日常。お互いに、相手をないがしろにしているわけでも、ましてや嫌っているわけでもない。ただ、元来不器用で口数の少なかった男が、妻に先立たれ、思春期の娘のみが手元に残った末に、二人の適切な距離感を彼なりに考えた結果がこれだったのだ。過剰な干渉をされずに済んで、伽奈としてはこの環境は好ましかった。学校生活はどうだ、上手くいっているか、などと、あれこれ口を出されてはたまったものではない。


 伽奈にとって真に冷え切っているのは、家庭などではなくその学校生活なのだから。


 ほとんど味を感じなかったジャムトーストを食べ終えると、父親と同じように食器を流しに置く。歯を磨き、自分の部屋に一度戻ってブレザーを羽織った。窓の外を覗いてみると、ガラス越しにも冬の寒さが伝わってくるような鈍色の曇り空が広がっていた。無地の白い毛糸のマフラーを首に巻き、勉強机の横に置いていた指定鞄を持ち上げようとした時、机の上に置いてあるものが目に入った。


 何の変哲もないノートやペン立ての中に、一つだけ妙に目につくものがある。黒い持ち手の、武骨なカッターナイフだ。机の左端の定位置に、それは無言で佇んでいた。それを見ていると、左手首の傷がざわざわと疼き、掻きむしりたくなるような熱が込み上げてくるような気がした。


 伽奈はマフラーと揃いの手袋を嵌めた。これで肌が見える部分は顔だけになる。今度こそ鞄を掴み、音を立てて階段を下りていく。行ってきますを言う相手もないので、無言で家を出た。






***






 電車に二十分ほど揺られた後、伽奈は自分が通う学校の最寄り駅に辿り着いた。藤ヶ岡高等学校。何の変哲もない市立校だ。強いて言うなら制服目当てにこの高校を志望する生徒が多いらしいが、伽奈はほどよく家から距離があり学力も自分に見合っているという理由でここに通っていた。

 同じ制服を着た生徒たちの数が周囲に増えてくると、心臓を真綿で締められるような心地になってくる。軽く俯いてマフラーに顔を隠すようにしながら、伽奈は足早に通学路を歩いた。耳をつく女子生徒の甲高い笑い声や、ふざけあう男子生徒の低い声。それら全てを振り切るように、伽奈は速度を速める。


自分のクラスの教室が近付くと、一際心臓が重く苦しくなった。眉を寄せて、表情が弱さに緩まないよう頬の筋肉を固めた。薄く息を吸い込む。それから開けっ放しの扉をくぐり、教室に足を踏み入れた。

 何人かの視線がさっと自分に向けられるのを無視しながら、伽奈は自分の席を探した。窓際の後ろから二番目。少し日に焼けた机に近づくと、確かに教室のどこかで女子生徒が囀りのような笑い声を漏らすのが聞こえた。

 自分の机を見下ろす。そこには可愛らしいハート型の、流行りのキャラクターが描かれた付箋が何枚も張り付けてあった。そのどれもに、マジックで文字が書かれている。


『根暗のくせにぶりっこ。マジキモ♡』

『ねえねえいつ学校やめんの?』

『陰キャのオーラくさいんだけど』

『ゴスロリきっしょ』


 書かれていることを認識するよりも前に、反射的に付箋を掴み取って握り潰していた。「あー、ぐしゃぐしゃにしちゃったよ。勿体なぁい」「せっかくユミらがラブレター書いたのにねえ」「ちょっとお、ラブレターとかキモいんだけど! やめてよねぇ」聞き慣れた声が耳を素通りする。握り潰した付箋をまとめてごみ箱に叩き込むと、伽奈は何事もなかったかのような顔で席についた。


 決して顔は上げない。反応は見せない。泣いても怒っても相手を喜ばせるだけだ。一限目のための教科書とノートを鞄から引っ張り出し、ペンケースと一緒に並べる。


「毎日毎日あんなことされてさ、よく学校来る気になるよなー」

「俺だったら超引きこもるわ。んでずっと家でプレステやるわ」

「お前それサボって遊びてーだけだろ!」


 遠巻きに好き勝手なことを言い合う、傍観者たち。女子ならば自分がターゲットにされたくない、男子ならば厄介なことに巻き込まれたくない、ただそれだけだ。伽奈だって、自分が彼らの立場にあれば、わざわざ面倒ごとに首を突っ込みたいとは思わないだろう。だから彼らを責める気にはならない。かと言って、嫌いではないのかと問われれば決してそうではなかった。伽奈はクラスの、いや、学校のほとんど全ての人間を憎んでいた。


 わたしはお前たちとは違う。

 馬鹿みたいに意味もなく同調して、本心を偽って、慣れ合うなんてまっぴら。

 そんなことをするくらいなら、こうやって何をされても一人でいるほうがよっぽどまし。


 何度も心のうちで唱えた呪詛を胸中に渦巻かせながら、鞄から読みかけの文庫本を取り出す。それを読みながら伽奈はひたすら始業のチャイムを待った。今朝に限って小説の内容が頭に入らない。ぬるりとした黒の活字は、伽奈を現実から連れ去ってくれるどころか、現実の方へと押しやっているように感じた。何故だかいつもより、自分に突き刺さる視線が気にかかる。


 見られている。……それはいつものことだ。

 けれどもこんな視線は初めてだった。悪意でもなく、忌避でもなく、ただ純粋な好奇心のような視線。


 しかし、顔を上げて視線の主を確認するのはプライドに差し障った。伽奈は頬の内側の肉に無意識に歯を立てながら、ひたすらに耐え忍ぶ。


――強情ねえ。


 聞いたことのない声色だった。意地の悪い笑みを含んではいるが、伽奈を虐める女子たちのそれとはまた異なる印象の声。鈴のように澄んでいるのに、どこか暗い翳りを帯びているようなちぐはぐなその声は、それきりもう聞こえてくることはなかった。

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