第二章 冬の日(2)
一日の授業が全て終わり、学校の最寄り駅に着くころには妙にぐったりと疲れていた。まだ月曜日だというのに、これでは一週間もつ気がしない。学校では、朝に付箋が貼られていた以降、すれ違いざまに陰口を叩かれたり掃除を押しつけられたりと特に他愛もないことばかりだったのに。
満員電車の空気の悪さに辟易しながらも、ようやく家の近くの駅に着く。
伽奈の家は駅から伸びる坂道を十五分ほど登った先にある。次第に傾斜のきつくなっていく坂は、夏は汗をかくのであまり好きではないが、冬はほどよく身体を温めてくれた。坂道の途中にある、街を見下ろせる高台が伽奈のお気に入りだった。簡素なベンチがぽつんと二組置いてあるだけだが、夕焼けや星空を眺めるのに丁度いい。あいにく今日は曇っていて、あまり綺麗に夕日は見られなかった。
家に辿り着くと、緊張がほどけて大きな溜息が出た。鈴付きの猫のキーホルダーがついた鍵を鞄から引っ張り出し、玄関の扉を開ける。荷物をリビングに置き、焼きそばを電子レンジで温めて詰め込むように夕食を摂った。
食事を済ませてやっと自室に戻ると、伽奈はさっきよりも深く息を吐き出す。ここが世界で唯一、自分だけの守られた空間と言える場所だった。
制服のまま、伽奈は椅子に腰を下ろした。机の天板を眺めていると、今朝の出来事が脳裏に蘇ってくる。どく、どく、と心臓がうるさく鼓動を早め始めた。余計な雑念を追い払うようにきつく目を瞑る。
目を開くと、もう伽奈の心は凪いでいた。机の隅のカッターナイフを右手に掴むと、きちきちと刃を繰り出す。部屋の灯りを受けて、刃は鈍い銀色に光を反射した。
「…………」
沈黙が落ち、伽奈はじっと光る刃を見つめていた。ややあって自分の左手を、手のひらを上向けて机に置いた。白く細い手首には、幾筋もの切り傷の痕がみみず腫れのように盛り上がっている。
その瞬間、いつも伽奈の心の中は空だった。
刃を皮膚に押し当てて、引く。ぴりっと背筋が粟立つ感覚に肩が震えた。一拍遅れて、線状に血が滲み、浮き出し、溢れ、腕を伝おうとしたところで伽奈はティッシュでそれを拭き取った。傷口にティッシュを押し当てると、思い出したようにずきずきと痛みが主張してくる。ティッシュの白があっという間に鮮烈な赤に侵食され、網膜に焼き付いた。
虚無の眼差しで、伽奈はそれを見ていた。
『――気持ち悪い』
唐突に他人の声が、しかも明らかに自分に向けられた声が聞こえたことに、伽奈は激しく動揺して傷口を押さえていたティッシュを取り落とした。反射的に勢いよく立ち上がると、キャスター付きの椅子ががちゃがちゃと耳障りな音を立てる。心臓の鼓動が一気に早まった。慌てて声のした方向に顔を向けると、その主はすぐに見つかった。
――少女、だった。セーラー服の。
窓際に、カーテンを背にしてその少女は佇んでいた。だらりと長い黒髪に白い肌。一瞬母の姿を思い出したその肌の色は、どう見ても生者のものではない青白さだった。あからさまにテンプレート的な『幽霊』の特徴だったが、その表情は恨めしげなものではなく、むしろにやにやとした笑みを浮かべている。
ひっ、と悲鳴にもならない悲鳴が喉から漏れた。無意識に距離をとろうと後ずさったが、少女はただ楽しげに伽奈の様子を眺めているだけだった。
「な、なに……」
ようやく口にできたのは、その一言だった。少女は笑みを引っ込めるでもなく――よく見れば、どこか陰鬱な感じの笑みではあった――窓にもたれたまま、『気持ち悪いって言ったのよ』と言った。その瞬間、伽奈はその声に聞き覚えがあることに思い至った。
――強情ねえ。
あの声だ。今朝教室で投げかけられた、あの声。
実際はっきりと聞いてみると、その声はどこか機械越しに聞いているような、妙に距離感のある声だった。本当に耳から聞こえてきているのかさえよく分からない。
左手首がずきんと痛み、伽奈は我に返った。目の前の少女は、パーツのところどころが空気に溶けているように見えた。長い髪の先や紺色のスカートの裾に重なって、後ろのカーテンが見えている。
「……とうとう本格的に頭がおかしくなったかな」
『ちょっと。私を自虐のネタに使わないでくれる?』
思わず零れた独り言に鋭く切り返され、伽奈はうっと息を呑んだ。だんだんと冷静さを取り戻してくると、そういえば自分は侮辱されたのだと気が付く。
「か、勝手に人の部屋にいて、気持ち悪いって何よ」
『言葉通りでしょ? 好き好んで手首を切るなんて、意味が分からないわ。死にたいならそこから思いっきり飛び降りたら、首の骨でも折れるんじゃない?』
「別にわたしは死にたいわけじゃ――!」
くすくすという笑い声に口を噤む。この少女は本気で伽奈を罵倒しているわけではなく、単にからかっているだけなのだ。
――何なんだ、一体。
プライベートなところを見られた羞恥や怒り、疲労や、そもそもこの状況の訳の分からなさにどうしていいか分からなくなり、伽奈は途方に暮れた。
途方に暮れつつも、適切な解決法など思い付くはずもなく――結論として、一旦伽奈は少女を無視することにした。
何事もなかったかのように椅子に戻り、立ったせいで手のひらの方へ流れてきてしまった血を拭う。傷口周りの血が固まり始めると包帯を巻き、汚れたカッターナイフの刃を丁寧に拭いた。一連の動作を愉快げに見てくる少女の視線は気付かなかったことにして、宿題をするために鞄からノートと教科書を取り出した。数学の教科書を開く。数字や記号に目が滑る。まるで頭に入ってこない。
『あら、懐かしい。貴女二年生? このへんの方程式とか、もう忘れちゃったわ』
「…………」
『宿題どれだけあるの? あ、几帳面ねえ、ノートにメモしてるの? 無駄に生真面目そうだものねえ、貴女』
「…………」
『そういえば貴女、名前何ていうの? ちょっと、人の話聞いてる?』
「……う、うるさいっ!」
背後から手元を覗き込んではあれこれかしましく喋りかけてくる少女を、流石にこれ以上無視し続けられる我慢強さは伽奈にはなかった。ばん! と机を叩くと、少女を振り返って睨みつける。少女は物語に出てくるチェシャ猫のような笑みを浮かべていた。切れ長の目と唇が半月状に弧を描いている。
初めは驚いたものの、見れば見るほど伽奈の思い描く幽霊の陰惨さからはかけ離れていた。雰囲気にどことなく暗い翳のようなものが見え隠れはするものの、怖いという感じは全くしない。
というか、幽霊なのだろうか?
「ほ……ほんとに何なの、あなた……幽霊なの? 何でわたしの部屋にいるの?」
『幽霊なんでしょうねえ、多分。何でここにいるかと言うと、何か変な子を見つけちゃったから気になって家までつけてきちゃったの』
つけてきちゃったの。ではない。
伽奈は生まれてこのかた霊感とかオカルトだとかいうものとは一切無縁だったし、とり憑かれるほど誰かの恨みを買った覚えはない。むしろ自分の方が化けて出そうだ。縁もゆかりもない幽霊少女につきまとわれる道理はない。
しかし、少女は一向に目の前から消える気配はない。やっぱり夢でも見ているのではないかと内心自分を疑いながら、少女に問いかける。
「……何か未練でもあるの? その、成仏できないでいるとか、そういうのなんでしょ?」
『成仏ねえー。無神論者でも成仏って言うのかしら?』
まるで人の話を聞かず、会話を噛み合わせる気もなさそうな少女にどっと疲れを覚えたが、ここまで同年代の人間と話をしたのは久しぶりだった。学校では教師と必要最低限の受け答えしかしないし、生徒とはまず口をきかない。
「……伽奈」
『ん?』
「
少女はそれを聞くと、にやにや笑いを深めた。
『
「先輩って……」
死んでいる相手に先輩も後輩もないのではないかとも思ったが、伽奈は語尾を濁した。相手の正体が未だによく分からない以上、余計な口を突っ込むのは得策ではないように思えたからだ。
ふと、遠くから玄関の戸が開く音が聞こえてきた。父親が帰ってきたのだ。伽奈ははっとして立ち上がった。
「ちょ、ちょっと、来て!」
『えぇー? どうしようかなあ』
いつになくばたばたと階段を降りてきた伽奈を、
「伽奈? 何かあったのか?」
「あ、――あの、」
伽奈は振り返り、少女――仄が自分の後ろについてきていることを確認し、洋一に向き直った。
――お父さん、見える?
この子がお父さんにも、見える?
そう、直接口にすることはできなかったが、伽奈は父親の様子を注意深く窺った。このところ白髪がかなり増えてきた洋一は、僅かに目を見張り、しかし普段と変わらない静かな口調で尋ねた。
「大丈夫か?」
――ああ、見えていないんだ。
伽奈は、「ううん、何もない。おかえり」と平静を装って返し、父に背を向けた。仄がくすくすと囁くような笑い声を上げている。
『お父さん、渋くて格好いいわねえ。私の好みじゃないけど』
うるさい。
胸中でそう怒鳴りながら、伽奈は部屋に戻って寝間着に着替えた。視線を受けながら着替えるのは気が進まなかったが、自分にしか見えないのならばいよいよ幻覚かもしれない。しかし風呂に入るのは流石に躊躇われ、朝一時間早起きしてシャワーを浴びようと決意する。もしも幻覚ならば、しっかりと睡眠を摂って朝になれば見えなくなっているかもしれない。
その後、一人で喋り続ける仄を今度こそ黙殺し、いつも通りに宿題を終えてアラームをセットし、伽奈は布団に潜りこんだ。
『あら、寝ちゃうの? 夜はまだこれからなのに』
返事をしたら負けのような気がして、伽奈は口を噤んだまま眠気に包まれるのを待った。当然ながらなかなか寝付けるわけもなく、仄がベッドの周りを動き回る微かな気配に警戒しているうちに時間だけが過ぎていく。
ようやく意識が薄れてくれたのは、午前四時を回ったころだった。
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