少女は痛みで武装する
早水一乃
プロローグ わたしが無知だったころ
母の死に顔は、まるで人形のようだった。
肌はなめらかに白くて、閉じられた瞼をふちどる睫毛が黒ぐろと映えていた。少し前まで呼吸をしていた肉体だとは、到底思えなかった。わたしは渡された百合の茎を握りしめながら、母の身体がたくさんの花の中にうずもれていくのを見ていた。
「さあ、
親戚の誰かが涙声でそう言い、わたしの背中を押す。わたしは棺の中で眠る母を見た。つややかな長い黒髪、優しげな口元、……そういえば、母の目はどんな色をしていただろうか。しかし今ここで母の瞼を開くわけにもいかず、わたしは黙って体温でぬるくなった百合の花を母の右肩あたりに置いた。
母が灰になるのを待っている間じゅう、わたしの脳裏には母の美しい死に顔が焼き付いたままだった。その時自分は泣いていたのかどうか、よく覚えていない。多分、泣いてはいなかったのだろう。普段あまり交流のなかった親戚の前で易々と泣いてたまるかという、子供じみたプライドがあったかもしれない。遺された娘が泣こうが泣くまいが、親戚たちは都合のいい解釈をして放っておいてくれたので、わたしはただひたすら母の死に顔を思い返していた。
それから数か月か一年かそこらの月日が経ったころ、わたしは街で通りがかったアンティークショップのショーウィンドウに目を奪われた。
そこには、人形がいた。いわゆるアンティークドールという、好事家たちが高値で取引するしろものだ。金に近い栗色の巻き毛に、ぱっちりとしたガラスの碧眼。頬と唇はばら色に化粧され、ぷっくりとつやめいていた。何よりも、その白磁の肌。それは母のあの死に顔を想起させるのに十分だった。
わたしはショーウィンドウ越しに、その人形をじっと眺めた。人形は、黒いレースがふんだんにあしらわれた豪華なドレスを着ていた。アクセントには深紅のベルベットのリボン。白い、これもレースのついた靴下に、ローファーのような革靴。サイズは人間のものより小さくても、それと同等、もしくはそれ以上の手間をかけて作られた衣装であることは幼いわたしの目にも明らかだった。
はっきりと、わたしはその人形に心を奪われていた。しかし、当然ながら子供に買えるような値段ではなく、わたしはしばしばその店に足を運んではショーウィンドウ越しにそれを眺めるようになった。
やがてわたしは、あの人形が着ているような洋服が、実際に人間が着られるものとして世の中に存在することを知る。地元の駅から電車を乗り継いで、大きなファッションビルが立ち並ぶ街へとその服を探し求めに行った。普段買い物をすることのなかったわたしが、それまでに貯め続けてきたお小遣いを握りしめて。
初めてその服に身を包んだ時の衝撃を何と言おう。鏡に映る自分は、まるで自分ではないみたいだった。お姫様の衣装と呼ぶには陰鬱な、けれども凛とした高貴さに満ちたレースとフリルの構造物。
わたしは目を閉じた。そこには母の死に顔があった。
その母が、目を閉じたままわたしを抱きしめた。実際には自分の腕で自分を抱きしめていたのだが、遠くなってしまった母のぬくもりが、そこにあるように思えた。
わたしはその時ようやく、母の死を悼んで泣くことができた。
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