描きたいものを、描きたいように。
相葉 綴
描きたいものを、描きたいように。
「暇だなぁ……」
ごうんごうんと騒々しく吐き出された冷房の風が、僕の前髪を揺らす。騒音のわりに、生ぬるくて気持ち悪い。
前髪、だいぶ伸びてきたな。そろそろ、切りに行かなくちゃ。いちいち視界がふさがれてうっとうしい。
「それにしても、暇だよなぁ……」
レジの前に腰を下ろしてから、もう三時間が経った。でも、僕の前を横切った客はまだ一人もいない。
客入りのないビデオ屋のバイトなんて、ほんとにやることがない。本来なら接客とかビデオの整理とか、いろいろとやることはあるはずなんだけど。接する相手も整理するものも、客が入らなきゃ作業として発生すらしない。
「なにやってんだろうなぁ、オレ……」
時間をもてあますと、僕はどうしても考え事を始めてしまう。
誰だって同じだと思うけどね。
そして、最近の僕のもっぱらの考え事の内容。それが、これ。
なにやってんだろうなぁってさ。
悩みっていうほど切実なものじゃないけど、取りとめもない考えってほど割り切れる話でもない。そんな、中途半端な考え事。
現状だけ見れば、バイトしてますってのが正解なんだけど。
そうじゃなくて。
なんでバイトなんてしてんだろうなってさ。
ひたすらに絵を描いて二年間を過ごし、四月からは三年生として通っていた美大を、休学してまで。
あ、客が来た。
「いらっしゃいませー……」
考え事をいったんやめて、一応客に声をかける。
最近、店長に覇気がないって言われたけど、それはこの店のせいだな。接客より考え事をしてる時間のが長いから、どうしたって気が抜ける。
だから、今入ってきたちびっ子もたぶん僕に気付いてない。僕のことなんて見もしないで目の前を駆け抜けてったし。
ほんとにすごいやつってのは、その場にいるだけで存在感というか、魅力みたいなのがあるんだろうな。あの絵みたいに。
と、客が見えなくなったことだし、考え事再開っと。
一応、休学にもちゃんとした理由があるわけだけど。
いや、ちゃんと、ではないか。たんなる逃避だし。
うん、わかってるんだ。これが、ただたんに逃げ出してるだけだってことくらい。
けど、どうしても僕は大学に残ることができなかった。
だから、休学。
退学じゃなくて休学ってところが、ますます『中途半端な逃避』っていう事実に拍車をかけてるよね。我ながら、情けない。
で、その休学の理由。
それがね、なんていうか、やられちゃったんだ。こてんぱんに。負けちゃった。
半年に一回開かれる、学内のコンクール。そこで、僕の描いた絵は銀賞をもらった。
それだけなら、普通に嬉しいことだったよ。美大には油絵だけじゃなくて、彫刻とか版画とかもあるから、部門として限られてくるわけだけど。それでも油絵を専攻している学生のなかで、二番目にうまいって評価をもらえたわけだし。
だけどね。
『世界』
“金賞 一年 斉藤 麻子”
こう題された絵を見たとき、こりゃもうだめだって思った。まぁ厳密には絵を見たその帰り道でなんだけどね。
絵を見た瞬間にさ、なんていうのかな、こう、ぐっと呑み込まれちゃったんだ。引き込まれた。その、絵の世界っていうのかな? とにかく、この絵の前じゃない、どこか。絵が作り出す、その世界のどこかに、持ってかれたんだ。
そこで、はっきりと見せ付けられちゃったわけだ。実力の差ってやつを。
いや、それだけじゃないな。
きっと、描いたやつは持ってるんだ。天賦の才とか、そういうのを。僕が持ってないものを。
それが言い訳だって、わかってるんだけどさ。
僕はその絵に打ちのめされた。こてんぱんにやられた。ボッコボコにされて、逃げ帰ったわけだ。
年下で、しかも入りたての一年生に。
『セカイ』
あの絵と受けた衝撃は、もう忘れられないだろうなぁ。
『キンショウ イチネン サイトウ アサコ』
もちろん、描いた人の名前も。
それで、僕は描くのを辞めた。
実際は描けなくなったんだけどね。
どうしたって、なにを描いたって、あの絵には勝てない。
そう思ったら、どうしても筆が進まなくてね。たまに動いても、徹底的に自信が持てなくなっちゃったんだ。自分の絵に。
そんなわけで、今は休学してせっせとバイト中。
「あれー? マキくんじゃん」
ふいにそんな声が聞こえて、僕は顔を上げた。
そこには、さっき僕の前を駆け抜けていったちびっ子がいた。
見たところ小学生くらいで、そのちっこい手には三枚のDVDが握られている。
はて? これは誰だろう?
「なにしてんの? こんなとこで」
ちびっ子は僕の動揺に気付いてないのか、平然と話しを続けてくる。
「いや、見ての通りっす」
とっさに答えてしまった。
「バイト中?」
「そゆことっす」
「そーなんだー」
ちびっ子はへらへら笑いながら、持ってきたDVDをカウンターに置く。
……平然と答えたけど、こんなにちっこい知り合いはいないはず……だよね?
「なんだよー。最近見ないと思ったら、バイトなんてしてたんだ」
「まぁ……」
僕はカウンターに置かれたDVDを、一枚ずつ手にとってバーコードを読み取っていく。
「って、最近って、どこっすか?」
「そりゃ、学校で」
はて? 小学校は八年前に卒業してるはずだけど……。
「いまあたしがちっこいからって、失礼なこと考えてたでしょ?」
とがめるような口調に思わず作業の手を止めてちびっ子を見ると、口を尖らせて僕を睨んでいた。
「いやいやいや、めっそうもない」
ふるふると体の前で手を振る。
「うぅー……、ならいいけど。これでも一応大学生だからね」
「そうなんっすか」
驚きは隠せないけど、なんとか平然と言えた。……ような気がする。
「まぁいいや。それで、なんで来ないの?」
「あぁ、休学中なもんで」
「えー? 休学? なんで?」
「まぁなんていうか、いろいろ?」
バーコードを読み終えたDVDを貸し出し用の袋に詰めながら、曖昧に返事をした。
「へぇそーなんだー」
「そーなんす」
ははっなんて笑ってごまかす。
こんな理由、人に話すことでもないし。
「もったいないなぁー。せっかくいい絵描くのに」
「三百十五円になりまぁす……って、オレのこと知ってるんっすか?」
「あぁ、ちょい待ってね」
ちびっ子はがさがさと肩から提げたかばんを漁って、がま口の財布を取り出した。
ちまっこい指でこじ開けて、三百十五円をほじくり出す。
「はい、ぴったり」
満面の笑み。
まぁちょうど払えれば気持ちいいけどさ。
「銀賞取ったのに、知らないわけないでしょ」
僕が小銭の確認をしていると、ちびっ子はさっきの続きを口にした。
「はぁ……そりゃどうも」
いい絵っていっても、所詮負けた絵だけどな。
「っていうわけでー。ちゃんと学校来なよ? マキくんの絵、楽しみにしてるからさ」
「あぁー……考えとくっす」
会計の済んだDVDを受け取りながら、ちびっ子が手を振る。
「それじゃまたねー」
「ありがとうございましたー」
ひらひらと手を振ったまま、ちびっ子は店を後にした。
なんだったんだ、あれ。つか、誰なんだろ? やっぱり、あんなちっこい子に覚えはないんだけど。
「あ、名前聞くの忘れた」
思い出して、表示されたままになっていた貸し出しデータを見てみる。
「サイトウ……マコ……」
う~ん、やっぱり知らんな……。
「お疲れさまでしたぁー……」
パンポーンなんて気の抜けた電子音を背に受けながら、僕はバイト先のビデオ屋を後にした。この電子音のせいで気が抜けるんじゃなかろうか?
店の裏手にある住宅街を、小石を蹴りながらぶらぶら歩く。
僕の家はこの住宅街の先、川を渡った向こう側だ。
時刻は七時。
夏とはいえ、この時間になれば少しずつ空が闇に飲まれていく。こんな住宅街の中からじゃ見えないけど、地平線では沈みゆく太陽が最後の抵抗をしてるかもしれない。
それにしても、ほんとに暇な店だ。楽すぎて、賃金をもらうのをためらってしまうくらい、暇だ。結局、あのちびっ子のあとには客が入らなかったし。
「そういえば、なんだったんだろうなぁ、あのちびっ子」
相変わらず小石を蹴りつつ、考える。
向こうは僕のことを知ってるみたいだけど、僕はやっぱり知らない。見かけた覚えすら、ないと思う。
けどなぁ。
「サイトウ……なんか聞き覚えがあるんだよなぁ」
どこかで見たことがある気がする。
いや、どこかじゃない。
あれは……。
そうだ、学生コンクール。
それで、金賞取った……。
「サイトウ、アサコ……」
その瞬間、繋がった。
「あ」
麻子。
アサコ。
マコ。
「読み間違い?」
あれは、アサコじゃなくて、マコ?
じゃあ……。じゃあ、今日の客は……。
「あれが?」
金賞を受賞した『斉藤 麻子』?
「マジですか」
ちっこすぎるだろ……。
小石を大きく蹴り飛ばして、顔を上げた。
いつの間にか住宅街を抜けて、河川敷まで歩いていたらしい。
開けた視界の向こうに、手の届かない夕焼けが広がっていた。
夏の夕焼け。
雲の切れ間から、幾重にも光の筋が降り注ぐ。
切れ間からのぞかない陽光は、雲を鮮やかに照らし出す。
どちらも迫り来る夜闇に抗うように、その刹那を紅に染め上げていた。
―楽しみにしてるからさ。
去り際、サイトウマコが残していった言葉が、僕のなにかを刺激した。
「あは」
まとわりついていた熱気が、どんどんと後ろに流れていく。
体の上下にあわせて、背負ったリュックが揺れた。
ガスガスと背中に当たる。
視界をふさいでいた前髪が、風にあおられてなびく。
のどが鳴る。
ヒュッと、細く息を吐く。
そして、同じように吸う。
呼吸は細かく、歩幅は大きく。
「うが」
気付けば、走っていた。
手の届かないはずの夕日めがけて。
そんな青臭いこと、二十過ぎた男がするかね?
なんて思ったりした。
でも、気にしてなんていられなかった。
「だってさ!!」
嬉しかったんだ。
どうしようもなく。
その言葉を聞いたときに。
ごまかしたけどさ!!
ほんとは嬉しかった。
ちゃんと見てもらえてたじゃん。
待ってくれてる人いるじゃん。
「うはっ」
これってさ。
素直に喜べばいいんじゃないの?
認めてもらえたってさ。
誰かに届いたんだってさ!!
「とどっ……けっ!!」
だから、手を伸ばした。
この夕日に。
届かなくても伸ばすよ。
『サイトウマコ』に。
「だから!!」
描くよ。
描くさ。
描いてやろうじゃん。
「わははっ」
夕日を見て気付いた。
『サイトウマコ』の言葉で気付いた。
がむしゃらに走って気付いた。
勝ち負けじゃないじゃん。
勝てなくたって、見てくれる人がいた。
勝てなくたって、認めてくれる人がいた。
勝てなくたって、待ってくれる人がいた。
「だったらさっ!!」
僕はまだ、描ける。
僕はまた、描ける。
描いていいじゃん。
描けばいいじゃん。
描きたいものを、描きたいように。
川にかかる橋の欄干に飛びついた。
「サイトォマコォッ!!」
叫んだ。
あらん限りの力を込めて。
「見せてやるからなぁっ!!」
ありったけの想いを込めて。
夕日に向かって、力一杯、声を張り上げる。
「待ってろよぉっ!!」
ぜんぜん、迷うことなんてない。
あとは描くだけ。
楽しみにしてるなら、見せてやる。
描きたいものを描きたいように描いた、僕の絵を。
描きたいものを、描きたいように。 相葉 綴 @tsuduru_a
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