裸足の逃走

相葉 綴

裸足の逃走

 逃げ出したのは、ほとんどが衝動に突き動かされたがゆえの突発的な行動だった。いや、ほとんどなんてもんじゃない。全部だ。

 こうして逃げ出して、なにかが変わるなんて思ってない。けど、気付いたらあたしはここにいた。まだ寒い二月の夜中に裸足で、しかも上着も着ないまま橋の欄干に寄り掛かっているのが、あたしだった。

 手はかじかんでもう動かない。いつからなんてわかんないけど、たぶん家を飛び出したときからだ。足はまだなんとか動くけど、もう感覚がない。突き刺さるようなアスファルトの冷たさも、今はほとんど感じない。

 ただ、体の震えだけは止まらなかった。冬の寒さのせいなのか、ひとりぼっちの寂しさのせいなのか、やりきれない不甲斐なさのせいなのかは、わからないけれど。


 逃げたのは、同棲している彼からだ。喧嘩した。ただそれだけ。それだけなんだけど、あたしは逃げた。彼がなにかを言おうとする前に立ち上がって、玄関の扉にぶつかるようにして鍵を開けて、そのまま走って逃げた。

 けど、なんで逃げたのかその理由はわからなかった。同棲してるわけだし、喧嘩なんて今までいくらでもしてきた。でも、逃げたことはなかった。

 それなのに、今日は逃げた。有無を言わさずに逃げ出した。

 人生なにが起こるかわからないなんて言うけど、なにをしでかすかわからないってのもあるのかもしれない。だって、今この状況がそうだ。自分でも逃げ出すなんて思わなかった。


 理由のわからない逃走になにか意味があるのだろうか。少なくとも、あたしにはわからない。だって、逃げたって寒いだけだ。夜中とはいえ、まったく人通りがなくなるわけじゃない。こんな寒い冬の夜中に上着も靴もなしで突っ立ってたら、そりゃ人の視線も集まる。それがまた寒かった。


 空には、月が輝いていた。今日は丸く明るい月で、水面にくっきりとその姿を映している。

 水面にゆらゆらと月が揺れる。

 夜空に浮かぶ月はこんなにも力強いのに、水面に揺れる月はどうしてこんなにも儚く弱いのだろう。


――まるであたしみたいだ……。


 そんなことを、思わないでもない。

 彼が夜空に輝く月で、あたしが水面に揺れる月。同じ『月』ではあるけれど、全然違う。

 ということは、彼が消えたらあたしも消えてしまう。影さえ残らず、跡形もなく。でも、あたしが消えても彼は消えない。また違う水面に姿を映すだけ。

 そんなことが頭をよぎって、あたしは顔を伏せた。


――ほらやっぱり。逃げたっていいことなんてない。


 どうして逃げたんだろう。逃げなきゃよかったんだ。逃げずに話し合えば、今ごろ暖かい布団の中で仲良く寝息を立てていたかもしれないのに。逃げた結果がこれだ。寒いだけ。寂しいだけ。いいことなんて、ひとつもない。


 ふいに、頭の上に重みを感じて、冷えきった髪に温もりを感じた。

「こんなとこにいたのか」

 低いけど、澄んだ声。そんな声が、頭の上からかけられる。ふわりとタバコの匂いがした。

「なんだ。まだすねてんのか?」

 あたしがなにも言わないからか、そう尋ねてくる。

 でもそうじゃない。そうじゃなかった。


 声が出なかった。だって、迎えにくるなんて思わなかった。探してくれてたなんて思わなかった。かすかに、彼の呼吸が荒い。普段運動なんてしてないくせに。タバコだって吸ってるから、体力なんてないくせに。それなのに。

 寂しさとか嬉しさとか悔しさとか愛しさとか、いろんな感情がごちゃまぜになって、思うようにならない。体も心も、ちゃんと動いてくれない。

 それでも、彼はあたしの手を取る。

「ほら、帰るぞ」

 強引でもなく、遠慮がちでもなく、あたしについていく意思があることを確認するような力加減で。でもそれは、疑ってるわけじゃなくて。あたしの居場所がここにあるって、再確認させてくれるような、頼れる力だった。

 だからあたしは、あえて立ち止まる。

「どうした?」

 彼が振り替える。

「……くつ…」

「ん?」

 彼が眉をひそめた。

「あたしのくつは?」

「あぁー……」

 彼が納得のいったように相づちを打った。

「ほれ」

 そして、おもむろに片足をあげてみせた。

 そこには、かじかんで真っ赤になった素足があった。ところどころ擦り傷もできている。

「俺も履いてない。だから気にするな」

 むちゃくちゃな理屈だ。

 でも、嬉しかった。裸足で飛び出すほどに心配して、擦り傷を作るほど探してくれた。

 でも、だから、もう少しだけ甘えてみる。

「寒い」

「ん?」

「上着は?」

「ない」

「寒い」

 すると、彼は少しだけ困った顔をして、あたしの手を強く握った。

「今は、これで我慢しろ。帰ったら、風呂沸かすから」

 それだけ言うと、彼はもう振り返らなかった。あたしも、それ以上声をかけなかった。


 真冬の夜道を、裸足のまま上着も羽織らずに二人で歩く。手を繋いで。

 足元は冷えきって感覚がないし、寒くて体は思うように動かないけれど。

 体の震えだけは止まった。

 今は寂しさも不甲斐なさも感じない。

 ただ握った手の温もりだけを感じて。あたしの居場所へ導いてくれる暖かい手。すっぽりとあたしの手を包み込む大きな手。

 それだけで、十分だったんだ。

 そうして、あたしは顔をあげた。


 目の前には大きな背中。そして、頭上には丸く輝く月。

 あたしを導いてくれるその二つの力強さに引かれて、あたしは歩く。真っ直ぐ前を向いて。ときどき上を向いて。

 水面に揺れる月じゃなくて、月を映す水面になればいい。そうやって包み込んで、支えになれたら、それでいい。それが、一番いい。

 そうやって、あたしは歩いていく。

 さぁ帰ったら彼の足を手当てしてあげなくちゃ。あたしを探してくれたんだ。あたしが治してあげたい。それからお風呂に入ろう。冷えきった体を、ゆっくり暖めよう。

 それから、二人で仲良く寝息を立てるんだ。

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