第21話『自分じゃあ見えないでしょう?』

「すごい匂い……」

 蓋を開けた時にも思ったが、中に入ると充満している匂いにマリンは顔を顰めて言葉を零した。

「んぅ……。さすがに、全国から成長期の学生ばかりを集めているから、衛生面は不必要なくらいに気を使ってるからねぇ。ここは特に消毒の匂いがきついよ」

 クレオは苦笑を浮かべながら言うと、ハンカチを取り出して鼻と口を押さえた。

 現在社会を円滑に送るのには、やはり菌やウィルスが一番怖い。どんなに強靭な肉体を持っていようと、潜在する力を使いこなせるようになろうと、身体の内部から体組織を破壊されてはどうにもならない。

 学園の生徒は七割が肉親がいないか、もしくはなんらかの事情で絆を断ち切られたものと、例え何かがあってもどこからも文句は出ないが、学園側はそんな生徒たちを家族と呼び、あらゆる意味で健康と安全には細心の注意を払っているのだ。

 実家から遠く離れたこの学園に通うことを決めたとき、両親は結構あっさりと賛同してくれたが、その時、父親に言われた『あそこは国や学園と言うよりは獣の群れだ。お前は獣の中で生活できるのか?』と言う忠告の意味が、今は身に染みて良く分かっていた。

「汚れる場所ほど細菌は発生するしねぇ。仕方がないのは分かるけどきついわね」

 マリンもスカートのポケットからハンカチを取り出すと、呼吸を確保するためにクレオに倣って鼻と口に当てた。

 マンホールの中は真ん中に川のように水が流れる大きな溝があり、その左右に一段高い点検者用の通路が伸びていて、今、マリンとクレオが進んでいるのはその通路だ。

 下水の水は汚物で変色したり悪臭を放ったりはしていないが、代わりに消毒液により白く濁っている。

 海に到達するまでには何度も飲み水として使われるだろうに、幾ら人体に影響はないと歌っていても、これ程白濁するまで消毒をする必要があるのか疑問に思った。

「ふっふっふっ~ん。なんかないかなぁ?」

 なぜか御機嫌なご様子で、クレオが妙な鼻歌を歌いながら先行していく。

 やはり何処か可笑しいと頭の片隅で考えながらも、それならそれでなにを企んでいるのか見極めようと、マリンはクレオの後に続いた。

 その時、遠くから重い音が響き渡ってきた。台風の時に吹き荒れる強風ににているが、それよりも重く地を震わせるような勢いがある。

 始めはマンホールの中に風が吹き込んで、幾つも連なる水路を駆け抜けるときの音だと思ったが風にしては遅く、ゆっくりと地響きを上げながら近付いてくる。

「な……に……?」

 唸るように近付いてくる低い音に、マリンは正体が掴めずに身構えた。

 敵か、迷い込んだ獣か、はたまた全く関係のないなにかなのか。いずれにせよ、襲い掛かって来ないと言う保障はどこにもない。すぐに防衛に移れる準備は必要だ。

「ああ、大丈夫大丈夫。なんでもないよ」

 音が篭り、四方八方何処からなにが向かってくるのかも分からないのに、クレオは軽い口調で苦笑を浮かべてマリンを見ると告げた。

 クレオにはこの音がなにか分かっているようだ。それなら危険はないだろうと警戒を解いたとき、音が何処から迫って来ているのか把握し、顔を強張らせて頭上を見上げた。

「上!!」

こんな閉ざされた空間では、頭上からの攻撃を一番警戒するべきだった。

 散開して直撃から逃れたとしても、生き埋めにされる危険性が高いのだ。

 緊張を解いたところだったマリンは咄嗟のことで反応ができず、その場に佇んだままで息を飲み込み、頭上を見上げることしかできなかった。

 斜め上の、成人大人でも二人くらいなら並んで歩けるくらいの大きなコンクリート製の土管が小刻みに震えて、白濁した大量の水を吐き出した。

「……。排……水……?」

 土管から水路へ水しぶきを上げながら激しく注がれている、滝のような水を凝視しながら、呆然としてポツリと洩らした。

「うん。学校や寮の生活排水だよ。学園の排水は多いから、一度プールくらいの貯水庫に貯めて一晩くらい消毒をしたのを一気に流すから凄い量になるの。

 だからあんな大きな音になるんだよ。だけど、大丈夫だったでしょ?」

「水滴が服に掛かったわ……」

 口許ににんまりとした笑みを浮かべて冷静に説明をするクレオに、一人で慌てていたのが恥ずかしくなって、唇を尖らせると本当は大して気にもならないことを口にした。

「それにしてもさっきのマリン。すごい顔してたね」

 斜め上の土管から吹き出してきた排水が収まり始めた頃、クレオが再び歩み出しながらも振り返ってにんまりと嫌な笑みを浮かべて見つめてきた。

「仕方がないでしょう! ほんっきで驚いたんだから……」

「だけど、すっごい顔してたよ? こんなん!」

 クレオは大袈裟に瞳を見開いてわざとらしく歯を食い縛って、変顔をしながらいう。

「そんな顔してないわよ!」

「え~? してたよぉ……。だってマリン、自分じゃあ自分の顔見えないでしょう?」

「そ……、それは、そうだけど……」

「でしょう? してたよぉ? こんな顔」

 そう言うとクレオは再びしつこく変顔をマリンに向けた。

「ちょっと、その顔はやめなさい!」

 何度もマリンの真似とは名ばかりのただの変顔をするクレオに我慢ができなくなって、声を張り上げた。

「あははは。マリンが怒ったぁ……」

 クレオは楽しそうに声を張り上げると、逃げるように小走りで駆けて行った。

「ふぅ……」

 小走りで少し先に進んだクレオの背中を見つめて、マリンは腰に手を当てて小さく溜息を着いた。なんだか精神的にどっと疲れたような気がした。

 どんなに強い実力を持っていても、如何に情報があろうとも、精神年齢は小学生並だ。

 いや、マリンの緊張を解くために敢えてやっているのだとしたら、マリンよりもずっと大人だろう。いずれにせよ、いい具合に緊張が解けたことに感謝した。

怒ったマリンから逃げるために小走りで先行していたクレオが、突然ぴたりと動きを止めると、それまでのテンションが嘘だったように固まって動かなくなった。

「どうしたの?」

 クレオの急変を目の当たりにして、これはただことではないとマリンは慌てて駆け寄ろうとして、辺りの空気が急に変わったのを肌で感じて凍りついた。

冷たい感覚が背筋を這い上がって来て、全身に鳥肌が立った。クレオが身動きを取れなくなった理由が良く分かる。

「結界……」

 思わず洩らしたマリンの呟きに、クレオが口許に満足そうな笑みを浮かべて頷いた。

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