第8話『逃げて』

 倒れた扉が巻き起こした風で、火の粉と煤が舞い踊る室内へマリンは踏み込んだ。

マリンは学園で武術を選考して基本から習っているが、火事で弱っていなければ破壊することは叶わなかっただろう。

「誰かいますか?」

 黒煙に埃が立ち上がった室内に向けて声を掛けてみた。

「あっ、すみません。助けてください!」

 炎で包まれた病室の奥、崩れた壁の傍らに膝を着いて、瓦礫を退かそうとしていた人影が、頭だけで振り返って声を張り上げてきた。

 骨折しているらしくギプスの巻かれた片腕を吊った状態で、小学生くらいの少女が懸命に瓦礫を持ち上げようとしていた。

「なにやってるの! 早く逃げなさい!」

 こんないつ崩れるか分からない病室で、少女が避難もしないでなにかを引っ張り出そうとしているのを見ると焦り、慌てて駆け寄りながら声を掛けた。

「リルム君が挟まれちゃって動けないんです……」

 大きな瞳が可愛らしいショートカットの女の子だ。女の子の前にはうつ伏せで倒れ、瓦礫の下敷きになっている小学生くらいの男の子がいた。

「なっ! 早く退かしちゃいましょう!」

「はい!」

 マリンが駆け寄り瓦礫に手を掛けると、少女が嬉しそうに微笑んで頷いた。

 二人で「せーのっ!」と声を掛けて力を込めると、瓦礫を少し浮かすことはできたが退けるには至らない。諦めずに何度も瓦礫を退かそうとしていると、瓦礫の下の少年、リルムが小さく呻いた。

「僕のことはいいから二人は早く逃げて! このままじゃあ三人とも助からない。大丈夫。僕はサラマンダーだから炎じゃあ死なない……」

 リルムは苦しみに顔を歪めながらも必死に笑顔を作って二人を見上げた。

「やだよぉ! リルム君も一緒じゃなきゃやだぁ……」

 リルムの言葉に少女は頭を激しく左右に振りながら大粒の涙をぽろぽろと流して、首から吊り下げたギプスの手まで使ってなおも瓦礫を押し退けようとしている。

「行くんだ、ネルティア!  ここから抜け出せたとしても、この足じゃあ僕は君たちの足手纏いにしかならない。一緒にいても危険な目に合わせるだけだ。二人で逃げればきっと助かる。僕は置いて行って! 風紀委員さん、ネルティアを連れて行って!」

 リルムがマリン見つめて強い口調で言い放った。炎に巻かれた病院で、彼女のために犠牲になる男の子。ドラマティックだなとマリンは思った。

 少女は少年のことを忘れはしないが、後に会う男性に心を癒されて幸せに暮らしました。と言うハッピーエンドを迎える筋書きだ。

 だが、これはドラマでも映画でもない。

少年を置いて行ったりしたら少女もマリンも後悔して、自分を責めて、この先、一生心の底から笑えなくなるだろう。それはもう愛ではなく、呪いだ。

 そんなことに少女も自分もなりたくはないし、リルムはまだまだ自分で死に方を選べる立場ではない。死なせるものかとマリンは思った。

「うるさいわよ。それだけしゃべれる元気があるなら、どうにか自分で這い出すことでも考えなさい! あなたはまだ世間に生かされている。勝手に死ぬことも赦されないのよ!

男の意地だかなんだか知らないけど、身勝手な自己犠牲じゃあ英雄にはなれないわよ!

私と彼女の二人じゃあこんな瓦礫退かせないわ。

 それでも少し動かすことはできる。後はあなたが自分で抜け出すの。

 英雄になりたいのなら、生きて人を認めさせなさい!」

 ネルティアと呼ばれた彼女と一緒に瓦礫を必死で退かそうとしながら、声を吐き出した。

「べっ、別に英雄になろうとかしてませんよ! 僕は二人に脱出して欲しくて!」

「だったら、なおのこと早くそこから抜け出すのね。私はあんたを置いていく気はないわ」

 否定してくるリルムの言葉を軽く鼻で一笑してやると、リルムは不貞腐れたように歯噛みをするも、床に指を引っ掛けて這い出そうと身構えた。

 ネルティアは嬉しそうに微笑んでマリンを見ると、深く頭を下げた。

「行くわよ!」

 マリンはネルティアに微笑み頷き返すと、真顔になって小さく声を上げた。

「いっせぇのせっ!」

 マリンが気合を込めた言葉と同時に力を込めると、それに合わせてネルティアも小さく呻きにも似た声を上げて、キプスで固めた手までも使って瓦礫を退かそうとするが、やはり少し動かせただけだった。

 リルムも二人が力を込めたのに合わせて、床に爪を立て必死に這い出そうとするが、足を瓦礫に挟まれて抜け出すことはできなかった。

 三人が必死で瓦礫を退かそうとして上げた唸りが部屋の中に響き渡っている最中、リルムの体から突然、火が吹き出した。

 彼は自分をサラマンダーといった。サラマンダーとは火の精霊のことだ。瓦礫から逃れるために火を放射させたと言うよりは、力み過ぎて力を発動させてしまったのだろう。

 彼の腰から下を押し潰している瓦礫が焦げ始めたが、コンクリートを溶かしたり砕いたりするには至らないようだ。

「ネルティア! 風を……。風でもう少し動かせない?」

 リルムは全身を火で包みながら床を這って瓦礫から逃れよう足掻くと、ネルティアに向けて声を張り上げた。

 忘れていたのか、ネルティアはハッとしたように瞳を見開いた。

「うん。やってみる!」

 ネルティアは大きく頷いて一歩下がり、瞳を閉じて手を胸の前で翳すと手の中に風を収束させていき、瞳を強く開くと同時に手の中の風が弾けるように破裂して、辺りに凄まじい風が吹き抜けた。

 風は周囲の小さな火は吹き消し、燃え盛る炎を押し退け瓦礫さえもガタガタと揺らし、マリンは今がチャンスとばかりに両手に力を込め、リルムも必死で抜け出そうとしたが、今一歩のところで瓦礫の下から出ることができない。

「んん……!」

「うぅうう!」

「はぁあああ!」

 三人の声が重なって瓦礫から懸命にリルムを救助しようとするが、どうしても後一押し足りない。自分にノルンのような力があったら、と悔しさで奥歯を噛み締めた。

 勿論、マリンは鍛錬を怠ってはいない。だが、常人程度の力しか持たないマリンは力よりも、速度と技術を優先して高めている。

 速度は力である。力学的に言えば、速度が倍なら接触時の力は二倍、速度が二倍なら力は三倍になるのだ。だからこれまで速度を上げることで力では対抗できない相手とも互角に渡り合ってきた。

 だがこの状況では何の役にも立たない。物は純粋な力でしか動かすことはできないのだ。

 このコンクリートの塊を退かすだけの力は、今のマリンがどんなに願っても手にすることはできないものだった。

「天井が!」

 ネルティアの悲壮な声に瞳を見開いて天井を見ると、梁が焼けて階上の重量に耐えられなくなりミシミシと音を立てながら、残骸を撒き散らしている。

 もう長くは持たないだろうと言うことは素人目にも明らかだった。

「もういい! 二人とも逃げて!」

 リルムが悔しそうに床に立てて爪が剥げた手のひらを握り締めながら叫んだ。

 そこにはさっきまでもヒーロー被れした少年ではなく、必死に生きようとしたが叶わず、涙を堪えながらも二人の安否を気遣うリルムがいた。

 サラマンダーならば火では死なない。だが、瓦礫に潰されてしまったら決して生きることはできない。

 自分には少年一人助ける力もないのかと、マリンは自分の無力さを呪った。

 瓦礫が熱を持ち熱くなるが必死で我慢して支えるも、天井がさらに歪んでパラパラと埃や残骸が降ってきた。最早、崩れるのは時間の問題だった。

 このままここにいたらリルムの言うとおり、三人とも助からない。だけどマリンには彼を置いて逃げるつもりもないし、自分が避難しないのにネルティアにだけ安全な場所へいくように言ったところで聞きはしないだろう。

 だったら、リルムを救出して三人で脱出するしかない。

 マリンは諦めずに全力で瓦礫を押し退けようとした。

 指先にコンクリートの破片が突き刺さって血が滲み、指先も腕も痺れてきて力が入り辛くなっていた。諦めるつもりはないがこのままではダメだ。ダメなのだが、どうすればいいのか分からなかった。

 その時、背後で何かを破砕する大きな打撃音が聞こえ、なにかを引き剥がす音が響き渡ると、少年を挟んだマリンとは反対側の瓦礫と床の間に壊れた棚の柱らしきものを突っ込み、この部屋の前まで一緒に来た少年がマリンを見つめてきた。

「こういう状況なら呼びなよね」

 少年は柔らかな笑みを浮かべてマリンに囁きかけてきた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る