輪廻
言端
円環漂流
地球はまるい、と大昔に誰かが言い、常識となったそれを科学という事実が保証した。今となっては当然、疑う余地は欠片もない。少年少女の夢想ですら、侵す気を削がれる絶対的な真理。その球体を包む宇宙はと言えば、それから数百年と経っても、まるいともまるくないとも言われていない。それでも人はまるいものには宇宙を見出す。絶対にまるい地球より、まるいかどうかわからない宇宙とまるいものが通じていると思っている。
「それはほら、今更地球をわざわざ何かに見立てる必要はないということだろ。宇宙ってのは誰も全貌を知らんから、身近なものに喩えて抽象的に感じてみようっていう、日本人的な試みだろ」
「日本人的か?」
「だって日本庭園ってそういうものなんだろ」
日々中身のあるようなないような相槌で人の話を酒に溶くのが生業のような男だ。快晴だろうが雨が降ろうが人形の骨を削るだけの私に言えたことではないだろうが、社交性を極めても思考回路のズレはいかんともしがたいと判る。
「振った私が悪かった」
ひとつ呷って空になったチムニーグラスを突き出すと、カウンター向こうの昔馴染みはまたそのよく動く口を開いた。
「理由はおいといて、その感覚自体はわかる気がするよ。円っていうか輪っていうのは色々想像させる形をしてるよな」
「その話はもういい」
いやな気配を感じ、あらかじめ封じようとはしたが無駄である。訊いてもいない、否散々聞きはしたのだが、その身の上話は聞いてやるならあと二杯分かかる見込みだ。
「この小さい輪にさ、約束とか気持ちとか夢とかを託すわけだ。それだけのことが人間と人間の輪をつくると言ってもいい。雄弁だよな、言っちまえばただの金属なのに」
「手放すだけで別れの挨拶にもなるしな、まぁ雄弁ではあるかもな」
「わざわざ抉ってこないでくれ」
「長くなるからだ。あと未練たらしくて聞いていられない、みっともない」
「ひどい親友だ」
「お前こそひどい男だよ」
あらゆる意味で、だ。長いとも短いともつかぬ四年半を一人の女性に浪費させたところまではそれなりにありふれた話かもしれないが、その理由が「なにも閃かなかった」という不透明極まりないものであり、それでいて「愛というものの真実を見てみたい」などとのたまって指輪の処遇を決めあぐねているあたりは立派にひとでなしである。いっとき冷戦と化した夫婦の間から逃げ遅れた私はと言えば、ハズレを引いた可哀想な女性だからといって彼女に大賛同するでもなく、もちろん親友という理由だけでいい加減が服を着たような男なぞを擁護するはずはますますなく、互いの言い分を聞いた数時間後にはそのことなど忘れて人形の腕や脚を造ることに注力していた。それはそれでやはりひとでなしの類であろうが、当事者みずからがちょうど今と同じように「ひどい親友だ」と言った舌の根も乾かぬうちに、「そんなこと言ったか?」とカンパリソーダを混ぜていたのだから、その程度のことなのだ。
話はまた巡る。
「それで、お前は人形の関節に宇宙でも見つけたか?」
「別にそういうわけじゃない。そういうつもりじゃなかったが、あの子たちの手足が宇宙というのは言い得て妙かもしれない」
殊にその、奇しくも球体であるところの関節というのは、設計図の数字に忠実に、精緻であればあるほど艶めかしく輝きを増すパーツだ。
「一律の数字に忠実というのは言い換えれば量産でもある。形による個性がつくれないからだ。だが奇を衒わず、後のものとも先のものとも寸分違わないように削るほど美しくなる。思うに」
「インペリアルフィズ」
「なんだ急に」
「喉が渇くだろ」
暗に饒舌であることを揶揄され、熱くなった頬を誤魔化すのについ、差し出されていたグラスを傾けてしまった。自分以外にとっては中身のない話を並べたてるのはお互い様ではないか、と笑われている気がした。控えめにはぜている液体をまたひとくち含みながら親友を盗み見ると、彼はどこか不思議そうな面持ちで白金の環をランプにかざしている。とっくに意味のなくなったそれを暖かくぼんやりとした橙の灯が包むと、それこそ意味もなく美しいもののように見える。
「ダイヤモンドリングか」
ふと思い出した通称を私は口に出していた。
「そんな上等なもんではなかったと思うぞ」
「いや、地球の外周を太陽の光がぐるっと囲むという、あの」
「ああ…これ、似てる?」
「まぁ」
「ふーん。いいな、それ」
ガラクタの宝物が高級品に似ていると言われた子どものような含み笑いで、彼はいっそう輝く指環の陰からランプの光輪を出入りさせる。偽りの太陽がチカリと私の目を焼き、暗色に満ちた店内で、それは一瞬本当に光を纏った惑星のように見えた。まるいものと宇宙と、その関係に結局どんな結論を出せばよいものだろうかと、私は命題へ立ち返った。地球を含む惑星は軌道という円を描く。宇宙とはその意味で環であると言うこともできよう。閉じた輪の中を回り続けることに終着点という結論はない。その曖昧さをもって未だ全容定かでない宇宙のようであると言うこともできよう。輪から丸へ、円から環へ、環から輪へ、手の中で滑らかに回る関節パーツのように、思考は同じところを繰り返す。ゴリゴリゴリ、と唐突に鳴り出した音さえも、堂々めぐりの一人議論が骨を砕く音なのかと妄想した。
「何をしてるんだ」
「珈琲でも淹れようかと」
カウンターの陰でコーヒーミルのハンドルを回しているのが見えた。至極当然に、木のハンドルとそれを握る手は同じ軌道を描いて、語り以外はセンスの良いこの男のいつもの豆挽きを寸分違わず再現する。
「全部廻ってるんだよな」
「何?」
「まるいものってさ。地球もそうだけど、宇宙だって結局回ってるものなんだろ、惑星が。全体で見たら、よくわからない気もするけど」
「私はどちらかというと、そのよくわからない方だ」
「そうか」
「ああ」
独り言がたまたま噛み合ってしまったようなやり取りの間にも、ゴリゴリゴリと、ハンドルはまわる。
「お前の仕事も、まわっている」
「おもしろいこと言うなぁ。確かにそうだ、そうだけど、お前の仕事だってまわってる」
「そうだな」
「俺たちの仕事は宇宙だったのか」
「何だって?」
「宇宙は回っている。俺の仕事もお前の仕事も、まわっている。ほら、同じだ」
それは流石に無理があるのではないか、とつまらない返事をしてもよかったのだが、おそらくはじんわりと身体を温めていた炭酸のせいで私は確かに少し、饒舌だった。
「繰り返しから抜けられないのが宇宙か」
「そういう見方もあるかもしれない」
「まわり続けるのは、意味のあることだと思うか」
「さぁなぁ」
いつの間にか豆を挽く音は止み、断続的に滴の落ちる音がする。
「お前は、お前の仕事は、いつまでまわっていると思う」
「さぁ、なぁ」
もうひとつ意味のない問いを探そうとした私の口元へ、香ばしい湯気が届いた。目の前に、底の見えない珈琲がある。濃い香りと沁み渡る苦味、後味は控えめの、いつもの美味い珈琲が置かれている。
「まぁ、繰り返しているうちに宇宙ができるかもしれないし」
その言葉はあまりにも軽く、すとんと、腑の底へ着地したので、私は頷く代わりに珈琲を啜った。香りに呼び起こされていた記憶の味と舌に触れた味が、そう在るのが当然とでも言うように重なる。後にも先にも不変の味わいを宇宙に喩うとはいかにも不遜な彼らしく、私の仕事は未だ宇宙には程遠いように思われた。
幾度も、私の頭の中ではまるいものと宇宙の問いが答えを出せずに廻っている。私の手は人形の骨を削り続け、どれを見比べても全く均一な球体関節を延々と作る。そして時々、親友と着地点のない論議をし、酒と珈琲を飲む。どこを切り取っても、繋ぎ合わせても、おそらく続けられる日々。私の世界は今、紛れもなく環である。
【end.less】
輪廻 言端 @koppamyginco
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