エピローグ

エピローグ

――それから僕は


 境界線の向こう側に行くこともなく、向こうの世界の数センチ前で足踏みをして、立ち止まり、引き返し、結果的にまた、いつもの日常へ舞い戻る。

 結局僕は、あの天才的な殺人少女のように実の父親を殺すことなどできなかったし、彼女ともに見たあの映画の主人公のようにすべてのものを振り払い、たったひとつの大事なものを守るため、自分の体に火をつけることもしなかった。

 僕らの時間は勝手に過ぎて、夜を超え、朝を迎え、カレンダーを捲るようにして日々を終え、いつの間にやら新年を迎え、あっという間に冬休みを終える。

 慣れた動作で制服を着て、通学路を通り学校へ行き、桑原亮二や石井健太に絡まれて、くだらない授業を受ける。

 何も変わっていなかった。テストも授業も何もかも、僕の前にある問題はすべてそのまま立ちはだかったままだったし、日常のなにかが変わるということもありえなかった。

 桑原亮二は気楽な馬鹿だったし、石井健太もクラスのやつらとのらりくらりと時を過ごし、僕は僕で特定の友人を作ることもなく、ただただ教室の隅の方で、ぼんやりと背景に溶け込んでいた。

 何事もなかったように、何事もないままに。

 妹の千尋は一般常識のわからない子供のままであったし、家に帰って僕が妹の面倒を見なくてはいけないことも当たり前のままだった。和泉紗枝が優等生の美少女であることも常識だったし、彼女が意味もなく僕のことを連れまわすことでさえ、当たり前のことだった。

「ねぇセイジ。セイジは一体、いつになったら私のことを名前で呼んでくれるの?」

 受験まであと数週間というある日のこと。『ラ・ブール』で彼女の茶飲みに付き合いつつぺらりぺらりと参考書を捲っていた僕は、いきなりの彼女の注文に手を止めて、思い切り顔を顰める。

彼女の言葉の意味が分からず、思わずそれを聞き返す。

「なんだって?」

「だから名前。だってセイジ、いつまでたっても『和泉さん』じゃない。一体、いつになったら名前で呼んでくれるの? わたしはもう、ずっと前から名前で呼んでるのに。不公正だよ」

 僕は彼女の怒る理由がまったくわからず見当もつかず、「えぇ……」と小さく呟いて、意味もなくがらんとした店内に目を走らせた。

 クリスマスを迎え年を越し新年を迎えても、この喫茶店『ラ・ブール』は全く何も変わるようなことは一切なかった。

 品数の少ないメニュー表にケーキやチキンが付けたされることもなかったし、店先にクリスマスツリーが飾られることも神棚に鏡モチが置かれるようなこともなかった。初老のマスターは表情の変化が全くない、無愛想なままだった。この店全体が不自然に時間が止まっているような気さえした。唯一の変化と言えば、最近ラグビー戦から新春サッカーに変化を遂げた天井近くの小さなテレビ。ここのマスターはいつも、あのテレビを見上げながら丸い食器を拭いているのだが、僕は今までこの店に、僕ら以外の誰かの客が来たことを見たことがない。

 僕は顔をあげて青いユニフォームを着た四番選手がゴールを決めることを確認し「そうだなぁ」と考える。

「じゃあ、春になって」

「うん」

「俺と和泉さんが東高に入学して――入学できたと仮定して、もしそこで同じクラスになったとしたら。名前で呼んであげてもいいよ」

 数週間後、僕らが受験をしようとしている斎東高校は学年ごとのクラスが10クラスくらいあり、その中で同じクラスになろうというのはなかなか確率の低いものだ。しかし天才少女和泉紗枝は「なんだ」といってお気に入りらしいミルクティーに口をつけると、にやりと不敵な笑顔を浮かべた。

「そんなことか。じゃあもう、決定も同然だね。今のうちに練習しておいた方がいいよ」

 全てが日常なのだ。何も変わらず変わらない。変わるはずもない日常。

 このような普遍のやりとりを続けていて、不意に僕は、たとえばあの夜あの時に、僕が和泉に借りた包丁を返却せずに使用していたとそうしたら、この日常が何かしらの変化を齎したのだろうかと考える。少しだけ考えて、僕はその考えを振り払う。

「もしもはもしも」「仮定は仮定」でしかない。


 それでも僕は知っている。非日常というのは、僕たちの生活をするすぐ隣、紙きれ一枚でまたいでいける距離にあるということを。


 受験まであと数日というある時に、僕はテレビで例の大阪府の高校生による父親刺殺事件の裁判の結果が出たということを耳に入れる。容疑者である被害者の娘は初等少年院送致が決定した――それだけ聞いて僕は、テレビのボタンをぼちっと消した。僕は冷えた食パンをトースターの中に突っ込んで牛乳をマグカップの中に注ぎ入れ新聞を広げ、パンが焼き上がることを待ちわびる。

 特別なことではないのだ、それらのことは。

 軽く扉を押すだけで、一歩足を踏み出すだけで、誰にだって起こりゆることなのだ。


 僕は制服を着て鞄を手に取り、家の扉を軽く押す。

 一月の朝はまだまだ寒く、息も白くて鳥の一匹見当たらないけど、あと数か月もすれば暖かくなし日差しももっと明るくなる。

 暗い空から太陽が出て地上を照らし、乾いた地面の狭間からは色とりどりの花々が顔を出す。

 穏やかに流れる空気と、その裏側にある冷たい温度を肌で感じ、僕らは春を待ちわびる。

 公園に埋められた二つの死体と、それを埋めたスコップを胸に抱き。

 現実と非現実の曖昧すぎる境界線を隣に引いて。

 昼と夜の狭間にある、奇妙な世界を夢に見て。


 目の前にある日常と、それを壊す非日常。

 僕らはそれを追い求め、


 夜を駆ける。



fin.


2009.4.5 完結

2018.1.16 修正

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夜を駆ける シメサバ @sabamiso616

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