雨音の下で……

 廃村を抜け、その先のとある荒れ寺に二人は落ち着いていた。

 再び降り出して来た雨水を、響馬は拾った穴明きの桶に貯め、湯を沸かした。

 ずっと道を一緒に来たお苑に、身体を拭かせてやりたいと思ったのだ。匂いは七羽達からの発見を容易にする。

 近くに温泉らしきものもないし、ここで一旦何とかするしかあるまい。


 着物の帯を解く時の布の擦れる音に背を向け、響馬は周囲の気配を探っていた。

 雨音以外は今の所しないが、そんなものは当てにならない。如何なる環境でも音を出さずに疾駆する修行を自分達はして来たのだ。

 気配を探知するしかない。吐息……それも風向きに逆らい、動くものの吐息。

 それを彼は探っていた。


 お苑はお苑で、自分が体を洗う傍に響馬がいる事に、嬉しさと落ち着かなさを禁じ得なかった。

 無論状況の事は良く分かっている。それに気配を探る技量なら自分の方が響馬よりずっと上だ。

 今だってちゃんと探っているが、何も引っ掛からない。

(しばしの休息になればいいのだけど)

と、お苑は願った。


 これまで彼と二人きりになった事はなかった。

 男心を誘う修業の時以外は誰にも許した事のない身体であったが、響馬が相手なら願ったり叶ったりだ。彼に背を向けたまま、お苑はそんな事を考えながら着物の前を開き、手拭いで顔を拭き始める。

 それから左肩を撫で、脇の下を拭き、それから白い乳房の上の方から撫でさする様に拭いて行く。たわわなそれが存在感を示す様に揺れ、手拭いの刺激からか、桜色の乳首が硬くなった。

 妙な気分がむくむくと彼女の中で鎌首を持ち上げ始める。

(……やはり欲求不満なのだわ)

 切なげに黒いまつげを揺らしながらちらりと背後の響馬を振り返ると、お苑は少し考えてから、駄目元で彼に声をかけてみた。

「響馬殿」

 やはりこちらを意識しているのか、びくりと彼の肩が震えた。

「な、何でしょう?」

「その……お願いがあるのですけれど」

「どの様な?」

「あの……背中を拭いて頂けないでしょうか?」

「背中を?」

「ええ。手拭いでは届きませんし、それに背中の方が沢山汗をかいたので」

「ええと……」

 ためらう様な彼の口調が可愛らしくて、お苑は笑いを堪えるのに苦労した。

「しかし……いいのですか?」

「自分では出来ません。

……お願い、響馬殿」

 後の台詞の方に切なげな印象を与える様にしてみたが、はたしてこの響馬に効くだろうか。

「ううっ……」

 彼が苦悶しているのが伝わる、そんな苦しげなうめきがお苑の耳から脳天に流れ込み、彼女は少し響馬が可哀想になって来た。

 しかし、

(それなら想いが伝わらない自分の方も少しばかり哀れではないだろうか)

と感じたお苑は、あえてそのまま続ける事にした。

 ひょっとしたら今しか彼とひとつになれないかもしれない。雀の事で彼から距離を置いていたが、

『世界中が自分たちの敵に回った』

という状況が、余裕のなさが、お苑を大胆にさせていた。


 彼はうめいたきり、黙り込んでいたが、やがて口を開いた。

「あの、その、つまり……」

「つまり?」

「『自分などがその様な事をしていいのだろうか』

と思ったのです」

「どういう意味?」

 お苑は何となく感づいたが、彼の口から聞く愉しみを選んだ。

「その……この様な状況に陥ってはしまいましたが、お苑殿にも好いた男がござりましょう?」

 お苑は呆れた。

「その様な者、私にはおりません!」

 思わず彼女は声を荒げてしまった。




 小さい頃から見て来たが、何という鈍感な男に育ってしまったのだろう。しかも

『好いた男がいるだろう』

だなどと。そんな者がいるならこの様に声をかけたりしない。

 自分は小さい頃からずっと響馬が好きだったのだ。

『お苑姉様、お苑姉様』

と、草切れを握り締めて楽しげに自分の後を追って走って来る幼い響馬。

 つい数年前だが、元服の儀を済ませ、凛々しい顔立ちで自分に微笑を向ける響馬。

 人目のない所で自分が寄り添おうとすると、切なそうな表情を浮かべ、

「俺には……好きな女がおります。申し訳ない」

と、そっと体を離す響馬。

 響馬は雀が好きなのだ、という事実は後でそれとなく知った。

 自分も妹の様に可愛がって来た雀を彼が選んだ事に、お苑は驚きと疎外感を隠し切れず、それから何となく彼と一定の距離を開ける様になってしまった。

 しかし今の彼の言葉によると、自分に全く気がないのかどうか、少々怪しくなって来た。

 雀の事が先に好きになったのか、自分の事も元々嫌いではないが、先ほど彼が言った、

『好いた男がいるのではないか』

という誤解から、あえて他の女を選んだのか。

 お苑は眉間に少ししわを寄せ、厳しい表情になると、それを突き止める事にした。どうせいずれは死ぬ身だ。

 それを確かめない事には死んでも死に切れぬ!




「お苑殿……」

 恐る恐る、といった様子で響馬は振り返り、何やら得体の知れない妖気を放出し始めたお苑の背中に声をかけた。

「何ですか」

 冷たい声。響馬はしまった、と思った。彼女が本当に機嫌を損ねた時の声だ。

「あの、お苑殿?」

「だから、何です?」

「あの……本当に好いた男はいないのですか?」

「いません」

「そうですか……」

 しかし、それならそれで、何故この女人はこんなに怒るのだろう。響馬はうつむき、内心首を傾げた。

 そしてその内、お苑のすすり泣く声が聞こえて来た。

「ひどい、響馬殿……」

 顔を上げた響馬は、彼女が白い背中を震わせて泣いているのに気付いた。

……ますます訳が分からなくなって来た。

 お苑が口を開いた。

「私がお前様の事を……何とも想っていないとお思いですか?」

「……」

「小さい頃から可愛がって来たお前の事を好いたとして、何の不思議がありましょうや」

(いかん、次第に昔の姉様口調になって来ている)

 どうやら彼女の心を大変に傷付けてしまったらしい、とさすがにこの鈍感な男も気付いた。




 こうなるともう何を言っても駄目なのだ。

 小さい頃には食べられる木の実や果物を沢山拾いに行かされたり、

『馬になりなさい!』

と言われ、四つん這いになった彼は背中に彼女を乗せてそこらをくるくる回ったりした。

(あれは堪えたな)

と、過去を振り返り、響馬は苦笑した。

 無論彼女はやりっぱなしではなく、しょんぼりしている響馬に、ちゃんと

「響馬も一緒に食べていいのですよ? 美味しいよ?」

と、木の実や果物を分けてくれたし、馬になった時に彼が手を擦り剥くと、

「ごめんなさい」

とべそをかきながら湧き水で洗ってくれたりした。包帯も巻いてくれた。

 後で、その頃はまだ青年だった天涯から

「それくらいの傷で包帯を巻いていては先が思いやられるぞ、響馬よ」

と、苦笑と共に指摘されたが、お苑はかばってくれた。

「私が悪いのです。腹を立てて、響馬に馬の役をさせました」

と、しょんぼりしてはいたが、天涯はこの二人を他の雲雀達と同じく可愛らしく思っていたので、二人の頭を優しく撫でてくれた。

「良い良い。傷が腐っては大変だものな」

 天涯は楽しげに笑った。




 天涯が逝き、七羽達に追われる立場となった今では、遠い昔の話になってしまった。

(みんな……)

 響馬はそう思いながら、そっと立ち上がると、お苑の方へ近付いて行った。

 豊かな胸元を両手で覆いながら顔を上げたお苑の瞳からこぼれる涙を、そっと右手の人差し指で拭ってやると、

「響馬殿……」

と、お苑は切なげな声を漏らした。響馬は優しい微笑を浮かべ、こう呼びかけた。

「寂しかったのですね、お苑姉様」

……昔の呼び方。

 お苑の瞳が一瞬驚きに見開かれると、嬉しそうに細まり、更に涙が頬を伝った。

「響馬……」

 お苑は膝をついてしゃがみ込んだ彼にすがり付いた。

「寂しかった! つまらなかった!!

 みんなとはこの様に敵と味方に分かれてしまったし、私はこんなにお前が好きなのに少しもお前は気付いてくれなくて……」

 それを聞いて、響馬は雀に心の奥で別れを告げた。彼女には愁太郎がいるし、彼女が好いてくれているのを知って嬉しく思った事はあったが、既に自分達は敵同士だ。

 そして、今、自分には自分の事を好いてくれて、しかも守ってやらねば、道を一緒に行ってやらねばならない女人がいる。

(手を引いてもらっているのは何時もこちらの方だったしな)

 それに彼女は昔から、自分の中ではずっと大事な優しい姫君のままだ。

 響馬はお苑を熱く抱きしめると、雀の事を頭から振り払った。


「……てっきりもう好きな男がいるものとばかり思っておりました」

 お苑は黒髪を涙で頬に貼り付かせながら、彼の胸から顔を上げた。

「な……ひっく……何故?」

「あなたは美しくなられましたから」

「私が?嘘……」

「いいえ、本心です。

……これは天涯殿が言っていた事ですが……」

「ひっく……なあに?」

「『女は好きな男が出来ると見違える様になるものだ』

と」

(そんな事で響馬は自分から距離を置いたのか)

 再びうつむいてしゃくりあげ続けているお苑は、少し天涯を恨めしく思った。

「天涯殿ったら……」

「いえ、鵜呑みにした俺も悪いのです。それで……俺はあなたが幸せになられるならば、祝おうと思っておりました」

 お苑の胸をその言葉が貫き、堪え難い悲しみが彼女を襲った。お苑は、声を振り絞った。

「そ、そんな訳……ひっく……ないでしょう?

 き、響馬と一緒でなくては……えぐっ……私はちっとも……幸せじゃない!

……そんなひどい事を言う響馬……嫌いです……。

……えふっ……ひっく……」

 響馬の袖をぎゅっと握り締めながら、お苑は涙の粒を幾つもこぼした。


 響馬は瞳を閉じ、泣きじゃくる彼女の背中を優しく叩いてやりながら、その耳に囁いた。

「本当に済みませんでした。これからはずっとあなたのお傍におります」

「ほ……本当に……?」

「はい。昔から大好きなお苑殿の傍に……」

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