遠雷(えんらい)
それぞれが様々な思惑を秘めたまま、試合の開始日になった。
ここは重の屋敷の門前。
響馬とお苑が旅装束でわらじの紐を締めている。そしてそれから少し離れた所で七羽達一行がひそひそと何やら打ち合わせをしている。
そろそろ昼になるが、正午の大砲の音と共に響馬達が出立し、それから少し遅れて七羽達が出立して二人を追う、という事になっている。
あれから響馬はお苑以外の七羽達と会っていなかった。正確には、皆に門前払いを食らったのである。
『試合前の敵と余計な言葉は交わさない』
という事らしい。響馬はそれがかなり堪え、その度にとぼとぼと帰宅した。
仕方なく当面の仲間であるお苑の家に行ってみた。彼女の両親は困惑気味で彼を出迎え、家の中に通そうとしたが、お苑が自ら玄関口に現れ、
「外でお話致しましょう」
と、彼の手を引き、彼女のお気に入りである、桜の咲き乱れる一寸した小道へ向かった。
花びらが二人の上に、風に吹かれながら降り注いでいる。
日差しが二人の胸中とは裏腹に暖かく差しているのが少し恨めしい。
響馬はお苑に手を引かれたまま、うつむいたまま、口を開き、ぼやいた。
「……大変な事になったな」
お苑もうつむいたままそれに応える。
「とんでもない事になりました……」
これまで家族同然に過ごして来た仲間と忍法勝負をしなければならないのである。自分の身ひとつで回避できるなら喜んで自分はそうしたい、と響馬は思った。
しかし、心に漂う女性の面影が、彼を見えない何かで縛り付けていた。愁太郎の許婚、雀である。
彼は、彼女が愁太郎の許婚になるより前からほのかな思いを胸に抱いていた。そして、許婚になった知らせを誰ともなく聞いたその時に、響馬は彼女に想いを明かす事無くそれを胸の奥深く封印したのである。
相手が弟弟子の愁太郎だったからではない。恐らく誰が彼女の許婚になったとしても彼は口を閉ざしたであろう。
……たとえ相手が重だったとしても。
響馬は、七羽や天涯の仕込みの結果、稀に見る忠義の忍びとなっていたのである。そして、押し殺し尽くせぬ雀への想いが憂いの表情となり、お苑と雀の心を惑わせているのだ。
女人二人の胸中はさておき、彼の師匠と老人は
「少しばかり厳しく仕込み過ぎたかな」
と少々頭を抱えている。雲雀や愁太郎達は
「もっと気軽に振る舞ったらどうか」
と言ったが、彼には他の振る舞い方は思い付かなくなっていた。
彼よりひとつ年上のお苑にとってはそれが微笑ましく、時には苦々しく思えた。
二人は一本の桜の木の下に、並んで腰掛けていた。幼い頃からそうしているので今更何の気兼ねもない。
舞い落ちる桜の花びらを眺め、それから彼方を見やると山々が連なっている。時間が止まった様な感覚。明後日に控えた死の旅路が夢の様だ。
お苑は口を開いた。
「響馬殿」
「何でしょう、お苑殿」
「響馬殿はこの旅を、七羽殿達をどうされるおつもりですか」
「……それについてはずっと考えていました」
「……」
お苑は右隣に座る彼の横顔を見た。精悍さと混ざり合う少年の頃の面影が残る彼の顔が、彼女は好きだった。今もそうだが、時折見せる困った表情が特に彼女のお気に入りだ。本人は気付いていないかもしれないが、少々頬を染めた所が実に可愛いと思っている。
響馬は口を開いた。
「俺は……状況の許す限り、みんなと戦う事を避けたいです。腰抜けと呼ばれても構いません。
今でも俺一人が腹を斬る事で済むならばそうしたい。
……甲賀の衆の未来の為とは言え……今回の決定、俺は納得が行きません……」
「響馬殿……」
響馬の口からその様な言葉が出るとはお苑は思っていなかったので、正直驚いた。前述の通り、彼は以前から聞き分けが良過ぎるので歯がゆく思っていたのだ。
意外な反応から愛らしさを感じ、お苑は彼を抱きしめ、その頬を突付いてやりたくなった。が、それをする事は躊躇われた。
……彼女は響馬が雀を愛している事を知っていたから。
それ故に、彼女もまた彼への想いを胸に秘めたまま、一人の仲間として、彼に接していた。
勘のいい七羽、雲雀、天涯辺りは気付いているかもしれない。しかし彼らはそれを口にした事はなかった。
重みたいに、女人を嬲る様な真似をする事は彼らの性には合わなかったのだ。彼らはある意味でお苑と雀に対し、永遠に忠誠を誓っていたのである。
出立の時間になった。
腰に刀を一本携えた響馬と、懐に短刀を一本呑んでいるお苑は半蔵から受け取った路銀を懐に納め、雲行きの怪しくなって来た空の彼方を見上げている。
大砲の音と共に半蔵が口を開いた。
「出立の時刻じゃ。楓響馬、お苑。ゆけい」
響馬とお苑は半蔵に一礼し、七羽達を一度振り返ると、向き直り、手に手を取って駆け出した。
後に追って来る、魔人と化した仲間の繰り出すであろう、十本の腕から逃れようとするが如く。
街道を、風を切り、弾丸と化した二人が道を疾走して行く。修練の賜物か、息切れする様子など微塵もない。
選択の自由もなく、漆黒の闇に突き落とされた二人が、ただただ彼方を睨み据え、疾走して行く。なびく黒髪の奥から、お苑が響馬に訪ねた。
「響馬殿、行く当ては?」
「船着き場へ。他の船を全て流し、海へ出ます。そこで先を考えましょう」
「しかし、空模様が」
「それほど沖の方へは出ません。海沿いを流します」
「承知」
二人の姿は見る見る内に街道の彼方へと消えて行った。
少しして、七羽達が同じ様に旅装束で疾走して来た。七羽が雲雀に訊ねた。
「雲雀、この方向で間違いないな?」
「はっ。俺の飼い慣らす『凶ツ
愁太郎が口を挟んだ。
「恐らくは……船を出して沖に出るかもしれませぬな」
「響馬の事じゃ、他の船は流すであろうな。そうなるとちと面倒じゃ」
と、天涯。少し考えてから、彼は言った。
「七羽殿……船着き場へみんなで行ってしまうのはまずいかもしれませぬ。それになるべく早い内に響馬の術を探らねばなりますまい」
「うむ」
「わしが囮になりましょう。ひとりわしに付けて下され。さすればやられてもそ奴が七羽殿達に戦果をお伝え出来まする」
「……奴の術……いや、お主達の術もわしは知らぬ。
死ぬか、天涯」
「はっ」
「師より先に逝かせる事になるとはな。全てはわしの不甲斐なさ故。許せ」
老人はちらりと彼にすまなそうな視線を向けた。天涯は快活な何時もの微笑を向けた。
「勿体無いお言葉でござる。命に代えても奴の忍法、お伝えします。
……二手に分かれましょう。雀、いや、愁太郎、俺と来い」
「はっ」
「七羽殿達は海を回り込む様に陸路を行きつつ、俺からの伝令をお待ち下され」
「承知した。なるべくなら……死ぬなよ、天涯」
「はっ」
五つの黒い影は二つに分かれ、走り去った。
……船着き場。
響馬は他の船を全て流し、自分達の乗る船を水際まで押しやり、飛び乗った。
「お乗り下さい、お苑殿」
「はい」
彼女に手を貸し、乗せると手に取った櫂で漕ぎ出そうとした。
……が、気配を感じ、顔を上げると、そこには見慣れた顔の、今は敵に回ってしまった男が腰に刀を携え、立っていた。お苑もつられてそちらを見て、袖で口元を覆った。
墨屋敷天涯である。
すっかり薄暗くなった曇り空の下。寄せては返す波の音だけが彼らを包む。
「降りろ、二人とも」
天涯は落ち着き払った声で告げた。櫂を持って立ち尽くしたまま、響馬は彼を見据えている。
「……どうしてもやらねばなりませぬか」
「うむ。俺としてはどちらを先に相手にしても良い。
……覚悟は出来ている」
「天涯殿……」
お苑の悲痛な呟きが波の音に消えた。響馬はそっと櫂を横倒しにすると、再び天涯を見据えた。
「承知しました。……俺も理由を見出すまでは死ねませぬ」
「理由か」
天涯は寂しげに笑った。
「わしらはどうあがこうと所詮は郷士。戦う意味なぞ……恐らく何もないだろうよ」
響馬は苦い表情を浮かべ、それから彼に問うた。
「……で、何処で?」
その言葉に、お苑は彼がやる気になった事を知った。弟の様に思って来た響馬の悲痛な横顔を仰ぎ見て、彼女もまた覚悟を決めた。
……彼の手をそっと握る。響馬もそっと握り返して来た。
お苑は思った。彼を一人で死なせはするまい。一人ぼっちにはするまい。
世界は今や自分達の敵に回った。ならばどう振る舞おうと同じ事。
私は彼に何処までも付いて行こう。
稲光が天地を貫いた。
嵐が近付いている様だ。突風が吹き荒れている。
天涯の後に続いた響馬達は草原の真ん中に立ち尽くしている。
彼らと2メートルほどの距離を取った天涯は最早腰の刀には手を添えず、両手をだらりと垂らして立っている。
……合図も何もない。殺し合いは既に始まっているのだ。
響馬は始めから彼の正面で睨み合いをする気はなかった。小声でお苑に囁く。
「俺と一緒に動いて下され」
お苑は頷いた。響馬とお苑は互いの気配を捉えつつ、同時に左へ跳躍した。
「逃がさぬ……!」
天涯は己の忍法の名を口にした。
それはすなわち、『忍法 黒点波涛』……。
わずか数分で決着はついた。
天涯の術を、彼がそれとなく存在を耳にしつつも、初めて目にした響馬の忍法『不動殺し』が破ったのだ。
地に伏した天涯を取り巻く様に舞っていた、お苑の放った桜吹雪は彼女の着物の袂へ収まった。
それと同時に、彼方に誰かの気配を感じた響馬はそちらを振り返った。
……彼方を愁太郎が駆けて行く。
追おうとするお苑の肩に手を置くと、彼女はこちらを見た。響馬は悲しげな眼差しで彼女を見返すと、彼女は心得たのか、黙って頷いた。
雨が降り出した。
天涯の身体を土に埋め、手を合わせた二人は再び手に手を取り、草原から彼方へと駆け出して行く。
「お苑殿、先ほどは呼び捨てにしてしまい、申し訳ありませんでした」
響馬の声に、ぬれねずみになりかけのお苑が、横を見る。
「気にしなくて大丈夫。私は構いません」
「恐れ入ります。
……俺は全てが終わってからもう一度半蔵殿に尋ねるつもりです。
『何故俺達なのか』
と」
「……はい」
「最後は俺達二人は敵同士なのかもしれません。それでも、俺にとってあなたは大事な人だ。だからこれまで通りに接します。
……よろしいでしょうか?」
寂しげな彼の声が胸に突き刺さって切なくなり、お苑は胸中で喘いだ。
(響馬殿……)
……しかし、声に出して言った。
「……そうして下さい。私はその方が嬉しい……」
「ありがとう、お苑殿……」
響馬は心に暖かいものを感じ、お苑を振り返った。お苑は心の底からの微笑を彼に向ける。
二人は雨の中、改めて互いに強く手を握り合った……。
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