骸の忍法帖(むくろのにんぽうちょう)

躯螺都幽冥牢彦(くらつ・ゆめろうひこ)

忍法 黒点波涛(にんぽう こくてんはとう)

 雷鳴が轟き、赤紫色に染まる夕暮れ刻の草原を照らした。

 そこにいる三人の姿を照らした。

 その内の一人、墨屋敷天涯すみやしき・てんがいが微かに何かを唱える。それから静かに告げた。

「『忍法 黒点波涛こくてんはとう』」

 対峙している楓響馬かえで・きょうまと、その連れの娘、おそのの周囲が見る見る内に闇に包まれた。

 自分達と天涯を取り巻く全てが黒一点に染まると、天蓋は不敵に微笑し、そして叫んだ。

「響馬、お苑。俺の『忍法 黒点波涛』、破れるものなら見事破って見せろ!」

 途端に二人は足元から、背中から、ずぶずぶと闇に沈み始めた。もがけばもがくほど、流砂に飲まれるが如く身体が沈む。

……いや、闇が彼らにまとわり付いて飲み込んで行くのだ。


 あっという間に二人は胸の辺りまで闇の沼に沈んでしまった。

「き……響馬殿!」

「お苑、俺の手にしっかりとつかまっていろ!」

 喘ぎながら彼の言葉に従う彼女にそう告げてから響馬は闇の主に振り返った。

「師匠……いや、天涯! あなたも知らぬ俺の忍法……今ここに封印を解く!!」

 彼はそう叫ぶと、腕を闇から引きずり出し、沈み続けながらも、がっきと自分の胸の前で印を結んだ。それを見た天涯は自分の血が逆流する心地悪さを感じた。

 自分を見据える響馬の視線を感じ、彼は次の言葉を耳にした。

「忍法……不動殺し!」

 フィルムの逆回しの様に世界は色を取り戻して行く。話には聞いていたが、いざ自分の目で見るととても信じられない。自分が死なぬ限り、この術は解けるはずが無いのだ。

 領域に入った敵を全て闇の沼に沈める『忍法 黒点波涛』。しかし、今その術が易々と破られようとしている。

……不動であるはずの物理法則の理を逆に展開させる『忍法 不動殺し』。




……しかし、自分の役目はこれで全うした、と天涯は思った。仲間が何処かでこれを見ているはずだ。

 この陰惨な同族殺しの試合に、それぞれの思いを秘めつつ、恐らくは、いや、きっと

『全ては甲賀の為』

と自らの都合を投げ打って飛び込んだ残りの四人が。


 天涯は己の術が敗れるのを身を持って感じながら、それでも不敵に笑った。

「これが貴様の術か、響馬! よくぞ師を超えた。この様な術にあっては、俺の忍法なぞ子供だましも同然じゃ……!」

 その天涯をお苑の袂から乱れ舞う幾枚もの桜の花びらが取り巻いた。

『忍法 濡れ桜』。

 刃の雨が、逃げ損なった彼を襲った。舞う花びらが、天涯の血潮で赤く染まって行く。それでもそれはただただ赤い花びらと化したのみで何時までも彼の周りを舞い続ける。

 お苑の意思ひとつで、それは皮膚に貼り付き、直接吸血する死の花びらにも、刃の吹雪にも変わるのである。

……刃の吹雪に変えたのは、仲間だった彼へのお苑のせめてもの手向けか。

「……て……天涯殿……」

 術を放ったお苑の両の瞳から涙がこぼれた。それを見て、天涯は切なげな微笑を見せた。

「……泣くな、お苑。全ては甲賀の為、家康公の為じゃ。

……この忍法勝負の結末……地獄から見ているぞ、二人とも……!」

 天涯の頚動脈が切り裂かれ、更に大量の血の霧が噴出した。

 仲間の死を初めて目の当たりにし、若き忍者、楓響馬はたまらずうめいた。

「ぬう……!」

 己の血煙に巻かれつつ、満足げな微笑を浮かべ、墨屋敷天涯はどう、と地に伏した……。




 本能寺の変の翌年。近江の国、甲賀郡。

 老人、松沢七羽まつざわ・ななわは春の日差しの下を歩いていた。

 彼はこの村で最も古参の老忍者であった。年老いても鍛え抜いた身体は健在で、歩むその後姿からも分かるほどに精気がみなぎっている。

 今日は弟子達みんなと共にお頭であるかさねの屋敷へ呼ばれているのだ。自分達の総大将とも言える服部半蔵が、珍しくこの地を訪れ、自分と、良く見知った仲間達に勅命を下すのである。

「甲賀越えの手柄を家康公が認めて下さったと言う事かの」

と老人は呟いた。

『甲賀越え』。史実に残る徳川家康の『伊賀越え』の事を甲賀ではそう呼んでいるのだ。




 本能寺の変で明智光秀の軍勢に囲まれて身動きが取れなくなっていた徳川家康を、自分達の仲間が無事に逃がしてから早くも一年が過ぎていた。

 その働きが家康の目に止まり、良く取り立ててもらえるかもしれない。それからと言うもの、郡内では様々な憶測がまことしやかに流れていたのである。

 そして今日は屋敷に服部半蔵が来ているというこの事実。この老忍者はその事が余程嬉しいと見え、今日は足取りも軽い。

「早く孫達に知らせてやらねばな」

 自分の孫ほどの年の頃の者達の事を指しているが、本人にとっては本当の孫の様なものであった。

 楓響馬かえで・きょうま

 陣羽織雲雀じんばおり・ひばり

 拭愁太郎ぬぐい・しゅうたろう

 おその

 すずめ

 墨屋敷天涯すみやしき・てんがい

 この六人が彼のもっとも身近な話し相手であり、信頼の置ける仲間であった。




 彼はこの戦国時代の真っ只中、村で最も長生きした忍者と言えるだろう。自分と共に修行を積んだ者達は、当の昔に戦場の骸骨になってしまった。

 甲賀二十一家が取り仕切るこの郡内で、響馬達と知り合い、剣術や忍術を叩き込んだ日々が懐かしい。今では彼らは立派に成長し、まだまだ修行中の身の上ながらも、お役目が下るその日を夢見ているのだ。

「……重が首領なのが不憫じゃて」

と、老人は一人ごちた。




 彼には昔、娘が一人いた。

 名前をつららといい、鬼岳沙衛門きがく・さえもんという少年に己の知りうる全てを叩き込んでいた。両親を早くに亡くし、七羽の家に引き取られたのだが、何処か寂しげな、それでも芯の強い少年であった事を覚えている。

 しばらくしてつららは夜になると家を抜け出して何処かへ向かう様になり、親としての彼は随分と気を揉んでいたが、ある日陵辱され尽くし、斬殺体で見つかった。

 犯人は分かっている。娘に目をつけた重の仕業だ。

 娘が家に残した米びつの下の手紙で彼はそれを確信したのである。

 その手紙でやっと知ったのであるが、娘は重に憎まれている沙衛門の事をかばって死んで行ったのだ。自分が騒げば沙衛門に手が伸び、結局娘のした事は無駄になる。

 その為、彼は当時その事については何一つ語らなかった。

……村を出る寸前までは、その愛弟子であった沙衛門にも。


「あの時は……わしも沙衛門も……随分と泣いたな……」

 老人の瞳にうっすらと涙が滲んだが、彼はそれをぎゅっとつぶって何処かへやっつけた。


 成長した沙衛門にはるいという従者が付いたが、重に目を付けられ、悩んだ挙句、二人は手に手を取って村から逐電した。るいの幼馴染で、雨代あまよという愛らしい娘がいたが、これも間もなく姿を消した。

 恐らく沙衛門達の縁者という事で粛清を恐れての事ではないか、と七羽は思った。




 誰かに言った事はないが、彼はそれでいいと思っている。重がこの村を仕切る限り、彼らの幸せはなかっただろう。

 何処かで喩え死ぬ事になっても、愛する誰かと一緒なら諦めもつく。そう思ったのだ。

「……泣かされる奴は少ない方がええわい」

 彼は誰ともなしにそう呟きながら、視線の向こうで手を振る響馬達の元へ歩を進めた。


「七羽殿」

と少年の面影を残す愁太郎がにこにこしながら手を貸してくれる。

「七羽様」

とお苑と雀の二人がお茶を勧めてくれる。

「ご隠居、足腰が衰える様子が微塵もございませんな」

と、これは天涯だ。腕組みをしながら木の斬り株に腰掛け、軽口を叩いている。

「ほっほっほ。わしはまだまだ長生きするのよ。おなご衆の相手もちゃーんとできるぞ?」

 楽しげに笑いながら老人は隣に座る雀の手をそっと取った。

「な、七羽様」

 雀が一寸うろたえた様だ。お苑が楽しげに微笑する。

 許婚の愁太郎が

「七羽殿、何卒お手柔らかに」

と苦笑しているのを見て、雀がぷうと頬を膨らませた。

「分かっておる、愁太郎。お前の許婚に手を出すほど無粋ではないわ。安心せい」

 老人はそう言ってから雀の豊かなお尻をついと撫でた。

「きゃっ」

 雀があわてて飛び退く。日頃あまり感情の起伏を表さない響馬が少しばかり驚きの表情を見せた。

 愁太郎も目を剥いている。寡黙な青年、雲雀もおやおや、とばかりに片眉を上げている。

「ははは、済まぬ済まぬ。わしの手はちょいといたずらが過ぎるでな」

「んもう、七羽様ったら」

 頬を染める雀の肩に手を置いて、お苑がまた楽しげに笑った。


 彼らは共に師匠と弟子の間柄であった。

 響馬と雲雀の好敵手同士の二人組、お苑と雀の姉妹の様な二人組。

 その師匠が天涯であり、響馬の弟弟子が愁太郎なのである。言うまでもなく、天涯の師匠は七羽だ。

 そういう事もあり、彼らはよく行動を共にしているのであった。そしてお苑と雀は心の中では共に響馬に恋をしていた。


 彼らも七羽と共に時間を過ごして行く経過で、老人から沙衛門、るい、つらら、雨代の事は多少ではあるが聞いている。つららの事を不憫に思ってか、彼らは老人に良くしてくれていた。


 重の屋敷への道中、響馬が口を開いた。

「しかし半蔵殿はどの様な密命を我らに下されるのだろうな、雲雀」

「さあなあ。しかしお前と一緒にお役目を頂くとは思ってもみなかった。まさに青天の霹靂じゃ。

 七羽殿、何か伺っておいでですか?」

 老人は二人の女人に手を引かれながら、振り返って応えた。

「いや。しかし、重ならともかく、服部半蔵殿直々のお役目じゃ。

 妙な事はないのではないかな?」

「ふむ……」

 偉丈夫の天涯が顎に手をやって何かを考えていたが、口にするのはやめた様だ。

(かつて沙衛門達が被った様な災難が降りかからねば良いが……)


 屋敷についた。そこで響馬達は庭に通され、縁側に正座する服部半蔵の前に揃って膝を着いた。

 半蔵は間もなく口を開いた。

「日々の鍛錬ご苦労である。早速ではあるが、家康公からの知らせを伝える」

 半蔵は次の様な内容を彼らに伝えた。

「この度のその方達の働きを家康公は大変喜ばしく思っておる。ついては伊賀に次いで甲賀の者達も正式にお抱えにしたいと仰せじゃ。

 しかし、お主達の実力について今一度修練の成果を見たいと申されておる。そこでお主達七人に互いの術を伏せたまま相闘ってもらいたい」




 七人は揃って脳髄に電撃が走るのを覚えた。

……自分達に殺し合いをせよと? 家康公はそう仰せなのか?

 彼らは自分達の聞いた言葉が真実にはとても思えぬまま、下を向いていた。




「方法はこうじゃ。楓響馬、面を上げい」

「は」

 響馬はうろたえながら顔を上げた。

「お主がこの七人の中から一人を旅の供にして、残りの五人を討ち取り、再びこの重の屋敷へと戻って来るのじゃ。

 そして最後にその供の者と闘う。響馬の供になる者は検分役という事になるな」

……半蔵殿は何を仰っているのだろう。

響馬は夢の中にいる様な気分だったが、それでも話に耳を傾けた。


「響馬」

「は」

「それではこの中から旅の供にする者を選ぶが良い。

……いや、待て。誰か望む者はおるか?」

「はい」

と声に出しながら顔を上げたのはお苑である。雀は許婚の愁太郎の手前、名乗りを挙げる訳には行かなかったが、内心悲しみに身をあぶられる様な心持ちであった。

 そして、愁太郎も雀を慕いつつも、それとは別に内心、姉の様に慕っていたお苑が響馬と行く事にショックを受けていた。


「響馬、異存はあるか」

「いえ、ありませぬ」

「ならそれで良い。お苑、と言ったか」

「は」

「お前は後見人として響馬を助けよ。響馬を死なせる様な場合はお前もその場で自刃し、この闘いは終わりじゃ。

 甲賀のお抱えの話は見送りになるやも知れぬし、そのままちゃんと受け入れが進むやも知れぬ。

 かと言って互いに手を抜く事、まかりならぬ。甲賀者がどれだけ役に立つか、それを示す為の闘いと言う事、肝に命じておけ」

「……は」

「話は以上。出立は三日後。この屋敷の入口。卯の刻六ツ半(今の朝七時頃)。

 何処へ向かおうと、最後にこの屋敷に戻ればそれで良い。お主達の闘いぶり、期待している」

 その場はそれでお開きになってしまった。




 帰り道。七羽と天涯を除く五人の若者は互いに口を利く余裕も失せたと見え、押し黙ったままであった。

……が、不意に口を開いた者がある。

「響馬、俺はやるぞ」

 陣羽織雲雀であった。

「……何の為に?」

 響馬は思わず間抜けな質問をしてしまった。雲雀は熱く応える。

「甲賀の為よ。俺はもっと遠くが見たい。広い世界に出てみたい。

 色々なものを見て、感じて、自分の中に取り入れたい。村の衆にもそれを伝え、俺達のこの村を栄えさせたい!」

「雲雀殿……」

 彼の考えは分からなくもなかったが、お苑はそう呼びかけてから悲しげな表情を浮かべた。

「何故この様な事に……」

 雀も泣き出しそうな顔をして愁太郎の手を握っている。七羽と天涯は響馬とお苑に声をかけたかったが、三日後には敵として対峙する事になる二人に何と言って良いか分からなかった。




「……つららよ」

 ここは七羽の家である。彼は亡き娘の位牌に呼びかけた。

「大変な事になってしまった。わしらは仲間同士で闘わねばならぬ。

 こんな難題を押し付けて来るのは重くらいかと思っておったが……家康公も無慈悲な事をされるお方よ……」

 七羽は眉間にしわを寄せ、可愛い仲間達の面影を脳裏に浮かべるのであった。

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