1章 別人_4

「あら、まぁ。摂津の方は口が貝におなりのようですもの。どうぞ、お続けなさいまし」

 ゆうしやくしやくの藤大納言にうながされ、仕方なく夏花はのうに浮かんだ返歌を口にする。

 詠うのは、不如帰を季語にした昔をなつかしむ和歌。在りし日の夏を懐かしみ、今一度その季節がめぐることを願った。

 かつて初めてもらったこいぶみに詠われた歌への返歌を、夏花は考えてしまったのだ。藤大納言への返歌としては不相応な歌。

「不如帰は確か……、夏の季語」

 春を詠った藤大納言への返歌であるなら、同じ季語を使うべき、と城介もおそまきながら気づく様子。

 けれど不如帰と言った時点で夏花が口にしたのは、夏の和歌。そうとわかっていて促されたのだからと、夏花は肯定の意味を込めて、周囲へとしようを向けた。

 疑問をあらわにした城介はともかく、呆気あつけに取られた様子の摂津はどういうことだろう。藤大納言に至っては、悔しげに衵扇をにぎる手をふるわせている。

 何故なぜそんな反応を返されるのかわからない夏花は、内心を押し込め口は開かない。だいに入るにあたり、養父である北山のそうに教えられたのだ。意味深に笑っているほうが、しやべるより良い結果を招くと。

「…………そう、ご自身で仰る気はありませんのね。でしたらわたくしが、和歌の不得手な方々に解説してさしあげましょう」

 解説とはありがたいと口にもできず、夏花はりようしようの意を込めて藤大納言へと微笑ほほえみかけた。何故かそれだけの仕草も、藤大納言には気にさわったらしくむっとされる。

「本当に豪胆なお方。わたくしの家が春の花である、と言えば夏花君の歌の意味がおわかりになりましょう」

 藤大納言は藤原のひめふじは春の花であり、夏花と呼びかけられたようにたちばなは夏の花。

 夏花は藤大納言の和歌が、藤原の権勢を花の盛りに譬えて詠った真意に、遅まきながら気づいた。つまり、天皇家のはんえいは、藤原家の助力があってこそ、と。

 豪胆なのはどちらか。夏花が呆れる内に、藤大納言はまだわからない顔をしている東宮妃候補に説明を続けた。

「おわかりになりませんの? 不如帰は橘に好んで宿る鳥。夏花君は、ご自身のお家がかつての栄光を取りもどす時を望むとお詠いになりましたの。……つまり、藤原の権勢をくつがえされるとの自信の表れ」

 思わぬかいしやくに、夏花は気力で笑みをし、狼狽うろたえる心中を隠し言い訳を発する。

「……っ。深読みにございます、とうのだいごんさま…………」

 本当に深読みでしかないのだが、藤大納言はもちろん、他二人の東宮妃候補も、まるで夏花が肯定したかのような態度で受け止める。

 橘家はかつて確かに今の藤原家のような権勢を手にした時期がある。夏花の実父なら返りきを望むだろうが、夏花自身にそんな野望はない。

 どうこの場を収めるべきか、夏花は答えが見つからなかった。

「失礼申し上げます」

 不意に、困ったような声が御簾の外からかけられた。

「ごかんだん中とは、思われますが……案内の準備が整いましてございます。どうぞ、お呼びいたしますひめぎみから、ご退出を」

 きんちようみなぎる東宮妃候補四人の空気は一気にかんする。

 最初に呼ばれた藤大納言は、立ち上がるぎわ、夏花へと口早にささやきかける。

「同じ北山にいた程度で、先をしたおつもりにならないでくださいまし」

 悔しげなひびきを帯びた声に夏花が首を巡らせた時には、もう藤大納言は侍女を引き連れ御簾の向こうへ消えるちゆう

 二番目に案内が用意された摂津は夏花へ向けてれいしようした。

だいたんと言うか、自信じようと言うか。そう、あなたには山暮らしがとてもお似合いなのね」

 負けしみとは言え、貴族的なせんさいさがないと育ちを皮肉られたことに、不快感がよぎる。

 三番目にこしを上げた城介は、何か言いたそうにいちべつしただけで去っていった。

 人の気配に満ちていた室内も静まり返り、残されたのは夏花と侍女のさわだけ。

 案内がすぐには来ないと見た夏花は、しつこうして御簾の向こうに控える沢辺へと近づいた。

「姫さま……っ」

 心配、不安、お小言。乳母めのととして共に育った沢辺の表情からは、その胸中が察せられる。

 同時に、沢辺も夏花の表情から何かを察したらしく、息を詰めた。

「沢辺、若君は何処どこだろう?」

「姫さま……っ。おことづかいに気をお配りに…………」

 あわてて周囲をけいかいする沢辺だが、はべる者は誰もいない。

 夏花はおとずれる者もほとんどいない北山のいおりで育ったため、僧都にれい作法はしつけられているものの、だんは幼少からの童子のような言葉遣いをしていた。

 一つ息をいた沢辺は、夏花を見つめ直してたしなめるようなこわを向けた。

「何を仰っているのですか、姫さま? 久方ぶりの再会で我を忘れるお気持ちは察して余りありますが、あれはあまりにも無礼なおいです。普段からお言葉遣いにはお気をつけあそばせと言い続けた私の──」

「違う……っ。うん、違うの」

 え切れず吐き出すような夏花のつぶやきは小さくとも、そこに込められた強い否定の思いが沢辺のお説教を止めた。

 何処までもしんけんまなしに、沢辺は狼狽えた。

「若君は山を下りて立太子なさったと聞いたではありませんか。それに、殿とのがたは成長と共に体も声も変わられるのが当たり前だと」

「違う、違うんだって。別人なんだよ。従者の方には見覚えがある。とうぐうそばひかえていたのも、北山で若君の学友だった少年だ。けどあの東宮は、若君とは別人にしか私には見えない」

 幼少を共にすごした若君の顔を、今さらちがえたとは思いたくない。

「まさか、まさかですよ、姫さま。それじゃまるで、若君が誰かに成り代わられているとでもいうような……。ありえません、そのような不敬、いえ不敬どころの話ではすみませんよ!」

 思わず声を荒げた沢辺は、おのれの口を両手でふさぐ。

 東宮を前に夏花がいだいていたおうのうまどう沢辺の目は、たよりなくれていた。

 夏花は誰よりしんらいできる乳母子だからこそ、しの沢辺にさらにり寄り、そのそですがるようにつかんだ。

「ねぇ、沢辺。本当にお前にはあの東宮が若君に見えた?」

「い、いえ。私は御簾越しできよもありましたし、はっきりとお顔を確かめたわけでは……。けれど、お話しぶりから若君と大きく差があるようには、感じませんでした」

「だったら、ちょっと東宮をのぞきに行ってさ──」

「な、なんてこと仰るんですか、おそれ多い。だいたい、姫さまと違って私は若君との遊びは見ているだけだったのですから、別人のように成長なされているのでしたらわかりませんよ」

 今すぐ行けと言わんばかりの夏花に、沢辺は慌てる。

「わからなかっただけなのかな? 私の……思い違いだったのかな?」

 顔を合わせた時にあった確信が、はなれてみると一時の気の迷いのようにも感じられる。

 だれと思わず問いを投げた後、笑った東宮の様子は、何処かうれしげでもあった。本当に、別人のように成長した若君が、好意的に受け取ってくれたからこそのみだったのだろうか。

「でも……、にしていいことじゃないと思う。だって、やっぱりにせものだとしたら、若君は何処にいるの?」

 きんじようの長子でありながら、出家を予定して北山の山門に入ったぐうの若君。

 出家とは、ぞくとのかかわりをつこと。現世でのけんを捨てること。本来なら東宮となる正当な権利を持って生まれたはずの若君が、大人の都合で幼い内から親元を離された。

 たがいに同じ悲しみを負うからこそ通じ合った夏花の心が、今も若君を求めている。

 夏花もかつて、親に捨てられるように北山で育つことになったのだから。

「と、ともかく、姫さま。このことは内密に。東宮さまがもし偽者であったとしても、あのように場を取りつくろわれたのなら、少なくとも──」

 外から近づくきぬれの音に、沢辺は言葉をれさせる。

「……そう、だね。あの場で取り繕ったなら、自分から正体を見せるようなことはしない。私が静かにしてれば、あの東宮は何もしてこないかもしれない」

 何度もうなずく沢辺に、夏花は苦笑をこぼした。

「でも、何もしないなんて、できる気がしないよ」

「姫さま……」

「私は、若君に会うためにここに来たんだ」

 夏花は近づく案内の気配を察して、沢辺を一度だけ振り返り、姫君と呼ばれるに相応ふさわしい微笑みをかべてみせた。

「果たさねば、耐えしのんだすべても無駄になりましょう?」

 口調を取り繕い、元の場所に戻ってあこめおうぎを広げると、現れた案内が声をかけてきた。

「最後になりましたが、ごようしやを。ご案内させていただきます」

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恋がさね平安絵巻 君恋ふる思い出の橘/ 九江桜 角川ビーンズ文庫 @beans

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