触れる



 綺麗だ、と僕は言った。

 言ったかどうかもよく覚えていない。それは内言ないげんだったかも知れないし、しかし実際に言ったにしてもそれは内言と不可分なものだったろう、つまり本心からそう思って言ったのだし、自然に言ってしまったというべきなのだ。

 成山なるやまの湿度をまとった肌に傾きかけた陽の光が当たり、それは光が彼の肢体に手をのばし触れているかのようで、僕は嫉妬すらできず、僕の腕がその光と一体となることを望み思い描き、右手を伸ばしかける。首と胸と肩と腹が作る官能的な造形に、歪んだ窓枠の形がまとわりついて、複雑な陰影を彼の表皮に刻印している。成山が半歩、前に出る。光と影が一斉に、彼の表面をでる。

 そして黙ったまま、成山は僕を見ていた。


 その鮮烈な記憶をふと思い出す。それからというもの、僕と成山は時々――週に一回ほどだろうか、抱きあって眠る。

 成山は古いアパートの二階の部屋に住んでいた。がらんとした六畳の部屋に、窓外の水銀灯の白い光が射しこんでいる。黒いスウェットパンツをはいたまま、裸の上半身を逆光の中にさらし、その肌は冷たく乾いている。

 どんなに寒くても、僕らは素肌で互いをかきいだく。成山のつややかな表面、その白い柔軟を、指の腹でどこまでもたどってゆく。肩の丸みをてのひらで包み、腕をそっとつかむように伝ってゆく。ひじに到達し、背中に移って背筋の谷間に指を沿わせ、脇腹にかすかに浮かぶ肋骨を探し出す。薄く軽い皮を一枚へだてた中には間違いなく熱と水と肉とが生きていて、彼が身をよじれば数多あまたの腱と肉が収縮してすばやく震え、うごめく。薄い脂肪の向こうに、たしかな骨の硬さを見る。

「あったけぇな、手ぇ」

 僕の上にまたがった成山が、抑揚のない声で言う。

 薄っぺらい敷き布団は、ようやく体温で暖まってきた。僕は身を起こす。成山が、ん、と言って布団の上に尻をつく。

 僕らは、向かい合うようにして座っていた。顔は、見ない。

「お前も上、脱いだら」

 そう言いながら、成山は僕の背に手をまわし、Tシャツを持ち上げる。筋張って冷たい指の感触が僕の背骨の上を滑り、骨と骨が軽く触れ合っているような感触。

 さみぃか、と言いながら、成山は左肩に僕の顔を乗せて、両の腕を肩にまわす。僕も成山の背に指を這わせ、抱く。

「いや……大丈夫」

 彼の耳の後ろに跳ねる短い髪に口吻こうふんをうずめながら、僕は答えた。洗ったばかりの湿度と、シャンプーの甘ったるい匂い。それから、夏の草いきれと春の土ぼこりが混ざったような、かすかな体臭。

 僕の手を乗せた背中は、ゆっくりと呼吸するたびに、かすかに持ち上がっては、下がる。僕の呼吸も、彼に触れられているだろうか。

「……成山」

「ん」

「やっぱり、寒い」

「ああ」

 成山は、畳の上に乱雑に置かれた大きなタオルケットを取ると、僕らをくるむ。そのまま横になり、布団をかぶった。うつぶせになった成山のあごが、僕の肩に触れている。僕は、再び成山の背に腕をまわす。

 暗い天井に、ぼんやりと円い照明器具のシルエットが浮かんでいた。

 成山が、少し身体を動かす。

 僕の手は、ゆっくりと彼の背を這う。細い腰から、肋骨の丸みを感じ、尖った肩にたどりつく。腕を抱き、あるいはまた、肩から首へと僧帽筋の細い尾根をたどり、下顎の骨を感じながら耳の裏へと指は至る。

 触れて感じるには、動かなければならない。指を、てのひらを、這わせ、沿わせ、撫でなければならない。僕の皮膚が、彼の肉を知り、そのしなやかな造形を記憶する。

 成山自身が、触っていてほしい、と言ったのだ。僕が彼の部屋を訪れた最初の日に。ただ触っていてほしい、と。

 成山は、それ以外には何も求めなかった。


 僕が成山に好意を抱いていたのは事実だった。

 それは、夕暮れのあの教室で着替える彼を見る前からのことだったはずだ。でも僕自身、なぜ好意を抱くのかも、その好意の中身が何なのかも、何ひとつわからなかった。ただ、憧れていたのかもしれない。友人らしい友人はなく、表情らしい表情も見せず、クラス内の瑣事さじには関わらず、いつも超然としていた成山。ある者は彼を不良だと言い、どこそこでケンカしていたという。あるいは、親が行方不明で施設の出なんだとか、発達障害で言葉がうまく話せないんだとかいう。そのどれにも、僕は興味を持てなかった。

 そんな彼に、触っていてほしい、という欲望があることを知って――僕ははじめて、自分が確かに生命に満ちた身体を持ち、生きていると理解できた気がした。僕のこの手は、彼に触れることができる。


 目をつむる。触覚と聴覚が鋭敏になる。

 二人の体温を吸った布の中は、やわらかな湿度で満ちていた。成山の腕が僕の脇腹に触れている。呼吸するたびに、腹と腹がかすかに擦れ合う。大きな肩甲骨、優美な鎖骨の曲線、あるいは腹筋の甘美な隆起。僕の指は怯えながら、何度となくそれらを確かめてきたのだ。

 僕らは、何も言わない。いつもこうして、やがて眠りにつく。


 成山が、僕の髪に触れた。

「……どうしたの」思わず顔を見る。

「お前の顔――見とこうと思って」

 そう言って、頭をなぜる。優しい手。僕らは、至近距離で見つめあっていた。

「これぐらい近いと、見えるな」

「何が」

 成山は少し目をぱちぱちとさせた。

「右目が、すごい近眼なんだ。本当に近くないと見えない。昔、手術したせい」

「左は?」

「普通に見える。普段は、左目だけで見てるようなもんだ」

 息を感じる。僕は成山の目を見た。右目も左目も、違いはわからない。

「右目で見ると、僕は違って見えるの」

 成山は黙ったまま、再び僕の頭をなぜた。骨ばった指が、髪にからむ。

「……今のお前は、今のお前だろ」

 僕は――教室で見る成山も、今の成山も、綺麗だと言いたかった。

 成山は目を閉じる。彼の背をもう一度抱くことしか、僕にはできなかった。

 翌朝、成山はありがとうと言った。



 それが、最後の日だった。

 どこかの街に転校してしまったのだという。二日後にアパートを訪れると、もう何も残っていなかった。あれは夢だったのかとすら思える。現実感がない。

 冬の乾いた風が吹いている。すでに陽は傾いて、ほこりっぽく赤茶けた土の地面を一層赤く見せている。

 不思議と悲しくはなかった。ただ喪失感だけが、青く明瞭な輪郭を持って、僕の中に広がっていった。

 それは確かに喪失だった。ただ抱きあって眠った、あの温潤で静謐な、孤独だが満たされた夜に代わるものは、あんなに美しいことは、僕の人生に二度と現れなかった。


 触れて感じるには、動かなければならない――動いている間にだけ感じられた、確かに感じられた彼の感触を、僕はもう、思い出せない。



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思い立ったら書くBL短編いろいろ 氷川白丸 @hikawashiromaru

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