触れる
綺麗だ、と僕は言った。
言ったかどうかもよく覚えていない。それは
そして黙ったまま、成山は僕を見ていた。
その鮮烈な記憶をふと思い出す。それからというもの、僕と成山は時々――週に一回ほどだろうか、抱きあって眠る。
成山は古いアパートの二階の部屋に住んでいた。がらんとした六畳の部屋に、窓外の水銀灯の白い光が射しこんでいる。黒いスウェットパンツをはいたまま、裸の上半身を逆光の中に
どんなに寒くても、僕らは素肌で互いをかき
「あったけぇな、手ぇ」
僕の上に
薄っぺらい敷き布団は、ようやく体温で暖まってきた。僕は身を起こす。成山が、ん、と言って布団の上に尻をつく。
僕らは、向かい合うようにして座っていた。顔は、見ない。
「お前も上、脱いだら」
そう言いながら、成山は僕の背に手をまわし、Tシャツを持ち上げる。筋張って冷たい指の感触が僕の背骨の上を滑り、骨と骨が軽く触れ合っているような感触。
「いや……大丈夫」
彼の耳の後ろに跳ねる短い髪に
僕の手を乗せた背中は、ゆっくりと呼吸するたびに、かすかに持ち上がっては、下がる。僕の呼吸も、彼に触れられているだろうか。
「……成山」
「ん」
「やっぱり、寒い」
「ああ」
成山は、畳の上に乱雑に置かれた大きなタオルケットを取ると、僕らをくるむ。そのまま横になり、布団をかぶった。うつぶせになった成山の
暗い天井に、ぼんやりと円い照明器具のシルエットが浮かんでいた。
成山が、少し身体を動かす。
僕の手は、ゆっくりと彼の背を這う。細い腰から、肋骨の丸みを感じ、尖った肩にたどりつく。腕を抱き、あるいはまた、肩から首へと僧帽筋の細い尾根をたどり、下顎の骨を感じながら耳の裏へと指は至る。
触れて感じるには、動かなければならない。指を、
成山自身が、触っていてほしい、と言ったのだ。僕が彼の部屋を訪れた最初の日に。ただ触っていてほしい、と。
成山は、それ以外には何も求めなかった。
僕が成山に好意を抱いていたのは事実だった。
それは、夕暮れのあの教室で着替える彼を見る前からのことだったはずだ。でも僕自身、なぜ好意を抱くのかも、その好意の中身が何なのかも、何ひとつわからなかった。ただ、憧れていたのかもしれない。友人らしい友人はなく、表情らしい表情も見せず、クラス内の
そんな彼に、触っていてほしい、という欲望があることを知って――僕ははじめて、自分が確かに生命に満ちた身体を持ち、生きていると理解できた気がした。僕のこの手は、彼に触れることができる。
目をつむる。触覚と聴覚が鋭敏になる。
二人の体温を吸った布の中は、やわらかな湿度で満ちていた。成山の腕が僕の脇腹に触れている。呼吸するたびに、腹と腹がかすかに擦れ合う。大きな肩甲骨、優美な鎖骨の曲線、あるいは腹筋の甘美な隆起。僕の指は怯えながら、何度となくそれらを確かめてきたのだ。
僕らは、何も言わない。いつもこうして、やがて眠りにつく。
成山が、僕の髪に触れた。
「……どうしたの」思わず顔を見る。
「お前の顔――見とこうと思って」
そう言って、頭をなぜる。優しい手。僕らは、至近距離で見つめあっていた。
「これぐらい近いと、見えるな」
「何が」
成山は少し目をぱちぱちとさせた。
「右目が、すごい近眼なんだ。本当に近くないと見えない。昔、手術したせい」
「左は?」
「普通に見える。普段は、左目だけで見てるようなもんだ」
息を感じる。僕は成山の目を見た。右目も左目も、違いはわからない。
「右目で見ると、僕は違って見えるの」
成山は黙ったまま、再び僕の頭をなぜた。骨ばった指が、髪にからむ。
「……今のお前は、今のお前だろ」
僕は――教室で見る成山も、今の成山も、綺麗だと言いたかった。
成山は目を閉じる。彼の背をもう一度抱くことしか、僕にはできなかった。
翌朝、成山はありがとうと言った。
それが、最後の日だった。
どこかの街に転校してしまったのだという。二日後にアパートを訪れると、もう何も残っていなかった。あれは夢だったのかとすら思える。現実感がない。
冬の乾いた風が吹いている。すでに陽は傾いて、
不思議と悲しくはなかった。ただ喪失感だけが、青く明瞭な輪郭を持って、僕の中に広がっていった。
それは確かに喪失だった。ただ抱きあって眠った、あの温潤で静謐な、孤独だが満たされた夜に代わるものは、あんなに美しいことは、僕の人生に二度と現れなかった。
触れて感じるには、動かなければならない――動いている間にだけ感じられた、確かに感じられた彼の感触を、僕はもう、思い出せない。
思い立ったら書くBL短編いろいろ 氷川白丸 @hikawashiromaru
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