柊木椿とふくすけ
六時三十七分。
目覚まし時計が鳴るよりも早く目が覚めた。私は時計を確認して、息を吐く。六時半より少したった時間。二度寝をするには少しだけ物足りない時間だった。アラームを切って、隣で丸まって寝ている少年の頭を撫で、蹴飛ばして床に落ちてしまった真新しいブランケットをかけなおす。少しだけ開いた唇からよだれを垂らしているのを見て、小さな子どもみたい、と無意識に口角をあげた。時折、むにゃむにゃと言葉にならない声をもらす姿を見て、かわいいと思う。
「ふくすけ」
名前がないと言った彼につけた名前を呼ぶ。友達に言ったら「犬の名前みたい、却下」と笑いながら言われるんだろうな。「椿が考える名前は古臭いよね」と余計なことを言うのかもしれない。
六時四十一分。
ベッドから抜け出し、昨日片付けるのをサボった食器を水につけてから、私と彼の朝食を作る。今日はご飯の気分じゃないから食パンにしよう。イチゴジャムを塗ったトーストにスクランブルエッグ、昨日作りすぎたトマトのスープにポテトサラダ。彼の席にはオレンジジュースとヨーグルトを置けば、朝食の準備は終わりだ。
「……どうしようかしら」
寝巻きのままでも怒る人はいないけれど、身支度を整えるために寝室に戻る。一応、彼に声をかけてみるが安心しきった顔で眠っており、起きる気配はない。クローゼットから黒のワンピースを取り出して着替える。いつものようにネックレスをつけようとジュエリーボックスを開けてから手を止めた。少しだけ迷ってから、ふたを閉める。白のカーディガンを羽織って、もう一度声をかけてから寝室を出た。
六時五十九分。
洗面所で顔を洗い、化粧道具を触る。唇に赤を塗ろうとしてからやめた。自分に似合わない色だと分かっていながら使っていたのはあの人の好みだったからだ。
「もう……必要ないのよね」
洗面所に置かれているコップも歯ブラシも一つだけしかない。最近まで一緒にあった片割れはゴミ箱の中にいる。口紅はどうしよう。捨てたほうがいいかな。じわりと滲み出た、未練が体を縛る。
「あ、いた!」
暗く沈んでいく思考を遮るように明るい声が聞こえた。ひょこっと扉から顔を覗かせた、新しい同居人の姿に頬が緩む。
「おはよう、ふくちゃん。今日はいつもより早起きだね」
「おなかすいたの、ごはんは?」
実家で飼っていた犬のように洗面所の前にいる私にすり寄ってくる彼を抱きしめた。寝ていたからか、体が温かい。
瞬きもしないで私を見ている大きな目は、私の茶色に近い黒の目とは違い、上下二色に分かれている。ガラス玉に夕焼けを閉じ込めたみたいな赤からオレンジ色のグラデーションは、いつ見ても不思議で綺麗だ。肩に少しかかる、たっぷりのミルクを紅茶に注いだ時の柔らかな色の髪は、寝起きということもあってぴょこぴょこと跳ねている。
クローゼットの中に残っていたあの人の服を着せているが、やっぱりサイズがあっていないようで手は隠れているし、ズボンの裾は引きずってしまっていた。あの人は背が高かったが、彼は一五〇センチほどしかない。
近いうちに新しい服を買ってあげないと。
そう思うのだが、中々、行動に移すことができないでいる。恋人が残した物に縋りつきたいという思いからではない。幼いこの子を一人でここに残すことが心配だったからだ。私がいない時に怪我なんてしていたら、一人で泣いていたら、そんな事ばかり考えてしまう。十三、十四に見える外見だけど、甘やかしてあげたくなるほどあどけない男の子。自分の名前も生まれも理解していないだろう彼を、赤子のように無条件で守ってあげたい。私がいなくなる、その時まで。
私は抱きしめる手に少し力を込めた。
「ご飯の用意は終わっているから、もう食べられるわよ。その前に、朝の挨拶がまだでしょう?」
きょとんっとした目が私を見る。挨拶は大切だと教えたはずだが、この様子だと覚えていないらしい。
「おはよう、よ。言ってごらん?」
「……う? おはよー?」
「よくできました」
ぎゅーっと抱きしめて、わしゃわしゃと髪をかき混ぜれば、彼は目をつぶって独特な笑い声をたてた。
「ふふ、ボサボサにしちゃってごめんね」
ボサボサにした髪を手ぐしである程度整えてから、取りやすい場所に置いているお気に入りの櫛に手を伸ばす。
「ねー? ごはんは? おなかすいたー」
「もう少しだけ待ってね。すぐ終わらせるから」
できるだけ手早く髪をといて、タオルケースの上に置いていた小さく畳んだ赤のバンダナを手に取る。
早くしないと犬の様な歯で噛みつかれちゃいそうだ。
「動いちゃダメよ?」
「んー」と分かっているのか判断がつかない声が返ってくる。
バンダナを細く折り畳んで、うなじを中心に持ってくるように調節し、頭の頂部辺りでクロスして、またうなじの方へ戻して結ぶ。ミルクティー色に一歩の赤を引いて、満足する。何の意味もない行為だけど、彼が私の家族だという証明の様で安心できた。
「……それじゃあ、ご飯にしましょうか」
彼の前髪を触り、彼が望んでいることを言って体を離せば、嬉しくてたまらないというように顔をほころばせた。
「ごはん! ごはん!」
後ろ髪が跳ねていることなんて気にせず、嬉しそうに扉から出ていく背を目で追う。
本当に小さな子のようだ。何も知らないかわいい子。
お腹に伸ばしかけた手に気が付いて、手を下ろす。もうここに、私が求めたものはいないのに。
七時二十分。
ガタンッと何かが落ちた音が聞こえてきて、はっとする。
今は考えている時じゃない。
「ふくちゃん? どうしたの? 大丈夫?」
私も扉から出て、慌ててリビングに向かう。
テーブルの近くにしゃがみこんでいる彼の姿と、床の上に飛び散ったオレンジジュース。彼の足元に子ども用の黒猫が描かれたマグカップが転がっているのが見えた。どうやらオレンジジュースを飲もうとして、落としてしまったらしい。
ガラスコップじゃなくて、落としても大丈夫なプラスチックのコップにしておいてよかった、と息を吐く。こういうことがあるから、目が離せないのだ。
しゃがみこんでコップを拾った彼の袖は溢れたジュースを吸っている。
「ふくちゃん」
私が呼びかけると、濡れるのも気にせずオレンジジュースの上を歩いて、こちらに来る。逆さまに持たれたコップから、まだ入っていたジュースが床を汚した。
こうなることを予想してなかったわけじゃないのに、どうして先に注意しなかったのかと後悔する。足も服もべたべただ。泥まみれになるよりはましだよね、と自分を納得させる。起こってしまったことは仕方がない。
「ねえ、あまいの、なくなっちゃった」
逆さまのコップを私に見せながら、こてんっと首を傾げて言う彼に怒る気もなくなる。
「そうね、淹れ直してあげるわ。……その前に濡れちゃった服を着替えましょうか」
「えー?」
不満そうに頬を膨らました彼をどうやってなだめようかと考えていると、家のチャイムが鳴った。
「誰か来たみたい。ふくちゃん、ここから動かないで待っていてくれる? お願いね」
返事を聞かず、玄関へと走る。扉を開けてからインターホンの存在を思い出したが、既に開いてしまった扉の向こうで待っていた人と目があった。
七時二十八分。
「おはようございます、椿さん」
お菓子教室で仲良くなった高校生の女の子、松木茉莉花ちゃんがそこに立っていた。白い衿や袖が清楚な印象を与える紺色のワンピースの制服を着ている彼女が、優しげな笑みを浮かべる。いつも会う時のハーフアップで二つ結びにしている髪型ではなく、下の方で二つ結びにしているのが制服に合っていた。白いリボンの髪飾りとウェーブのかかった胸までの髪が揺れている。
「おはよう、茉莉花ちゃん。こんな朝早くからどうしたの?」
「すみません、この前、茜のためにお菓子作ってもらったお礼をしていなかったのを思い出して。これ、椿さんに……」
地面に置いていた見慣れないお店の紙袋を彼女は私に手渡す。紙袋には靴屋さんで見かけるような長方形の箱が入っていた。
酷い臭いが鼻をつく。
何の臭いなのかしら。まるで何かが腐ったみたいな。
そこまで考えてから、紙袋の中に入っている箱の中身に気が付く。
「ねえ、これ……」
震えそうになる体を誤魔化す様に、体勢を正す。受け取った紙袋が存在を主張するように大きく揺れた。
「はい、猫の死体です。ああ、大丈夫ですよ? 加工した方がいいって茜は言ったんですが、椿さん料理得意ですし、やっぱりこういうのって、自分で調理したいだろうと思って。綺麗なままです」にこやかに笑う彼女。「本当なら人の方がいいんでしょうけど、さすがに私一人では用意できないので。すみません」
当たり前の様に、そう口にする彼女が怖いと思ってしまった。花が開くように、目を細め、唇をほころばせ、ふわりと笑いながら口にしているのが、余計に。
「椿さん?」
何も言わずにいたからか、彼女が不思議そうに私の名を呼ぶ。
「……ごめんなさい。茉莉花ちゃんがこうしてお返しを持ってきてくれたのが嬉しくて。本当にありがとうね」
「喜んでもらえて、私も嬉しいです」
彼女は小さく笑い、ちらっと腕につけていた時計を確認した。私の方からも時間が見える。七時半を少し過ぎていた。そろそろ、お開きにした方がいいかもしれない。このままだと、彼女が学校に遅れちゃう。
私がそれを言う前に、茉莉花ちゃんが申し訳なさそうな表情で「もう少し話していたいですけど、遅刻するので」と言った。
その言葉に、ほっとする。部屋の中で待っている彼のことも心配だったので、引き止める理由もなかった。変なことをしていないといいけど。
「そうね、茉莉花ちゃんの学校、ここから少し遠いものね。朝からありがとう。また、お菓子を作るから貰いに来てね? それじゃあ、気をつけて」
「はい、また。朝からすみませんでした。行ってきます」
「行ってらっしゃい」
小さく頭を下げてから、早足で去っていく彼女を見送る。スカートがひらひら泳ぐ魚の様で、自由に泳げる彼女が少し羨ましく見えた。
彼女の姿が見えなくなったのを確認して扉を閉める。閉め忘れる前に鍵とドアチェーンをかけておいた。
「……いい子なんだけどな」
彼女の笑みや態度は嫌いじゃない。だけど、時々その好意が怖くなる時がある。今日みたいなことを簡単にしてしまうところとか。
心を落ち着ける様にふうっと息を吐いてから、紙袋を持って急いで部屋に戻る。
「ふくちゃん、ごめんなさい。お話が長引いちゃって」
「んーん」
彼はコップの縁をがじがじと齧りながら、おとなしく立って待っていた。目を離したすきに部屋の中をぐちゃぐちゃにしたこともあったので、おとなしく待っていた彼にほっとする。だけど、本当に我慢の限界だったようで、ぐうぐうとお腹が鳴っているし、涎もだらだらと垂れて服を汚している。こちらを見る目は苛立っていた。
「おなか……すいた……」
「すぐご飯にしましょうね」
服や床が汚れていることなんて、今はいい。彼の空腹を満たす方が先だ。彼女が持ってきた紙袋から、箱を取り出す。わざわざ臭いが漏れるようにしたのは、彼女の好意なのか、それとも。
「嫌がらせなのかしら」
箱を開ければ、布の蓋をされたビンが一つ入っていた。中が分からない様に色付きのビンを用意してくれたらしい。気を使うところがずれているように思えた。
「ごはん、ちょうだい!」
コップを床に投げ捨て、瓶を奪おうとする彼の手を避ける。このまま、瓶を渡してしまったら、割ってしまうのが目に見えている。
「ふくちゃん」
「……あい」
少し強めに名を呼べば、不満そうに返事をした。それでも、おとなしく手を下ろしてくれる。本当にいい子。
頭を撫でたい気持ちを我慢して、涎を垂らして待っている彼のために蓋を外して、中身を引きずり出した。本当は冷水で洗ったりしたいが、それまで我慢できないだろう。パサついた毛の感触とか、固まった肉の感触とか、保冷材で冷やされていたからだろうか、少し濡れた感触もある。
「はい、どうぞ」
床にそれを置けば、彼はすぐに食らいついた。猫の頭を手で押さえ、お腹に歯を食い込ませ、皮膚を引きちぎり、床に吐き出す。口に毛が入ったのを嫌がるように、何度か唾も吐いた。中が見える場所ができれば、後は手でそれを広げながら肉を食べる。最初に心臓を口に入れて味わってから、残りの臓器をゆっくりと食べるのがお決まりだ。
彼女が持ってくる死体は血抜きされていることが多いので、血で汚れることはない。それ以上に、彼が汚してしまうので掃除はしないといけないけれど。
「美味しい?」
車で轢いてしまった死体を食べる人だっているのだから、猫の死体を食べることはおかしいことではない、と思う。食べ方は教えないといけないみたいだけど。
「おいしいよ? だけどね、もっとおいしいの、しってる。それにね、これだけじゃ、おなかいっぱいにはならないの」
変色した肉を口いっぱいに頬張ってから、にこにこと嬉しそうに彼は言った。
「あのね、ほんとにおいしいのはね、くろいハコのなかにあるんだよ。いつもうまってるの。はなといっしょに、ねんねしてる。おなかのところがね、ぐちゅぐちゅってなってるのが、いちばん!」
「秘密だよ」と、笑う彼の頭を撫でる。加工されている物ならともかく、生の死肉なんて本当なら食べる物じゃない。だけど、彼は心の底から美味しい物だと思っている。初めて会った時も、車に轢かれただろう猫の死体を草むらの中で食べていたので、ちゃんとした家庭で育ってないことは予想している。そう思い込まないといけない環境だったのだろう。だからこそ、私は彼を守らなければいけない。
「お腹壊さないように、後で病院行こうね」
彼の口元を拭ってあげ、私は笑う。
「びょういん、やだ」
「私もふくちゃんが苦しい思いをするの嫌なの。いい子だもの、我慢できるよね?」
ぷくっと頬を膨らませ、首を横に振っている彼を抱きしめて、いい子、いい子と背中を撫でる。
ああ、私の可愛いかわいい子ども。お母さんが守ってあげるからね。
君を食む 音琴 鈴鳴 @10Ritnek0
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