告別
永遠に続けと思っていた冬も終わり、ついに春が訪れた。
暖かい日差しも、心地良いそよ風も、小鳥達のさえずりすら忌々しく思える。
山羊男は政府の役人として処刑場に来ていた。まだ執行時刻までしばらくあるが、既に多くの見物人が憎き先王の子の処刑を見んと集まっている。民衆が口々に王族に対する悪質な中傷を話しているのを聞くと、それがまるで自分に向けて放たれたように感じた。それらの悪評の大半はかつて革命軍が流したものであった。
――まだ生きていたのか、穀潰しのがきめ――
――あの夫婦の子なんだからお里が知れたものさ――
――王妃は淫婦だったって。あの子とすら遊んでたとか――
ああ、やめてくれ! 叫びだしたくなるのを必死で堪える。下手に役人が口を出せば、逆上した民衆が何をするかわからない。首を切られる前に貴人が酷い目に遭わされるかも。民衆が暴徒と化したときの恐ろしさは山羊男が何より知っている。
いや、違う。山羊男は自分の考えに対して首を振った。所詮自分の身が可愛いだけなのだ。民衆を命懸けで止めたり、貴人の処刑を自分の命に代えても止められなかったのは、命が惜しかったからだ。かつて仲間に異議を唱え、処刑台に送られた者達のような勇気も義心も持ち合わせていない人間なのだ、自分は――だからこうして、今もみすみす立ち尽くして時が経つのを待っている。
「……少し、うるさいな」
重い足音が処刑場に響く。途端、民衆達の陰口がぴたりと止んだ。首切り男が到着したのだ。
筋骨隆々、ただでさえ威圧的な巨漢だが、顔を隠すために被った仮面や数多の罪人の血を啜った長剣がさらにおどろおどろしさを増している。普段は好き勝手に処刑人に憎まれ口を叩く民衆も、いざ本人を前にすると萎縮してしまうものだ。ざわめきはすっかり途絶え、処刑場は静寂に包まれる。
「お、おい……処刑人」
「なんだ」
あくまで役人として声をかけた。何を言おうとしたわけではない。処刑をやめてくれだとか、今更そんなことを言えたような立場ではないのだ。しかし、もう今日で最後なのだ。何も言葉が浮かばなくても、一言でも話したかった。だが、振り向いた首切り男の眼光に、山羊男もやはり黙らされてしまった。仮面の奥から覗くぎらりと鋭い目。その中にはいっぺんの躊躇も慈悲もないように思われた。自分とは違い、この男はとうに心を決めているらしい。恐ろしさと恥ずかしさに、山羊男の舌は縮こまった。
「……用がないなら行くぞ」
何も発さなくなった山羊男に呆れたように首切り男は前を向き直し、処刑台へと歩いていった。大きくたくましいはずの背中がいやに寂しげに見える。彼はいったい、どんな心持ちで貴人の首を刎ねるのだろうか。遠くに聴こえてくる馬車の音に、山羊男はじっと唇を噛みしめて表情を消した。
「彼、――――は忌まわしき王族の最後の末裔であり――」
判事が長々と貴人の罪状について読み上げる。文字が読めるようになった今ではわざわざ判事に読んでもらわずとも内容は把握できるが、あまりの馬鹿馬鹿しさにとても読む気になれなかった。罪人の登場に元気を取り戻した民衆達が脚色された彼の人生に憤怒し、石や悪罵を投げつける。馬車から降り、刑吏と共に処刑場まで歩いてくる貴人は、やはり布仮面を被っていて、そんな民草に何を想っているのか表情から読み取ることはできなかった。
「仮面を取れ」
刑吏から貴人が引き渡される。なるたけ平静を装ったが、微かに喉の奥が震えてしまったのを感じる。貴人もまた囚人として忠実に、被っていた布袋を脱いでついに衆目に自らの顔貌を晒した。首切り男は知らず知らずのうちに長い溜め息をついていた。ああ――やはりまだ、少年だ。七年前に自分が首を刎ねたあの夫妻にそっくりだ。
「祈りは済ませているか」
「ええ」
短く頷く。厳かな口ぶりだったが、伏した瞳の睫毛が少し揺れていた。首切り男は気づかなかった振りをし、貴人の肩を軽く抱き、ゆっくりと処刑台の中央へ歩く。一分一秒でも永らえさせるため、可能な限り緩やかに。
「……あっ」
「どうした?」
中央の一歩手前で、貴人が何かに足を取られたかのように動きを止めた。蹴つまづきでもしたか、と足元を見ると、貴人の足先、処刑台の朽ちてヒビが入った割れ目から、草が顔を覗かせているのがわかった。
「こんなところにも、花は咲くのですね」
今まで気づきもしなかった、踏めば容易く潰れそうな小さな草だった。しかしそこには晴天の色の可憐な花が確かについていた。探さずともここにあったのだ。自分が何人もの首を切り落としている、この場所にすらも。
「ああ、そうだな」
貴人にしか聞こえぬように呟くと、首切り男は貴人を定位置に跪かせた。斬首を待つ死刑囚の姿は、主に祈りを捧げる子羊とよく似ている。日に焼けず、陶磁のように白い
さようなら、どうかお元気で。
さようなら、どうかおまえが幸いであるように。
剣を振り下ろした。
そして、すべてが終わった。
「あなたには、ほんとうにご迷惑をおかけしました」
家に戻ると、山羊男が玄関先で首切り男を待っていた。今更だというのに、やはり律儀に山羊の面を被っていた。
「嫌味でも言いに来たか」
「いいえ。お礼を言いに来たまでです。……あなたのおかけで、あの方の最後の一年は幸いなものになったはずですから」
見苦しい、と首切り男は思う。言いたいことなど山程あるだろうに、想いを堪え、言うべきと思ったことだけ言っている。最初に彼に出会ったとき感じた不愉快さの正体はこれなのだろう。半ば八つ当たりのように山羊男を胸中で罵りながら、首切り男は懐を探った。
「そうか。ところで、おまえに
「なんですって?」
戸惑い、聞き返す山羊男の手に、首切り男は手紙を押しつけた。山羊男の方から来てくれたので渡す手間が省けた。
「これはいったい?」
「さあな。読んで確かめてみるがいい」
山羊男を自室へと招き、安楽椅子にどっかりと腰を下ろす。こわごわと手紙を開き、その内容に仮面越しでもわかるほどに同様する山羊男。それはいつかの冬、貴人から山羊男に渡すよう託されたものだった。
こんにちは、山羊のおじさま。
思えば、あなたに対して手紙を書くのはこれが初めてですね。今まで何度も、首切りの人のためにぼくの手紙を読んでくださったでしょうけれど、これは正真正銘、あなたにだけに宛てた手紙です。
あなたがこれを読んでいるということは、ぼくはもう首を刎ねられたあとでしょう。あなたにはたくさんお世話になりました。ぼくはちゃんとあなたにお礼とお別れを言えたでしょうか。もしも言えていなかったのなら、この場で改めて言わせてください。
ほんとうに、ほんとうに、ありがとうございました。
あなたがどういう人であるかは、ぼくも気づいていました。あなたがきっと、罪を償うためにぼくの面倒を見ているということも。あなたの苦しみがどれほどのものか、ぼくにはわかりません。慰めたり、やめてと言ったら、余計にあなたを傷つけてしまうかもと思い、今日まで言わずにいました。けれど、もうぼくはいません。だからぼくに対して罪を償おうとする必要はありません。
あなた達が行ったことで、たくさんの命が犠牲になったのは事実です。革命が起きなければ、ぼくや、ぼくの両親や、他のたくさんの人も、死なずに済んでいたでしょう。ですが、これは、七年前に起こらずとも、いずれ起きていたはずの出来事です。ぼくが死ななくとも、ぼくの子供か、孫か、遥かな子孫の誰かが同じ境遇になっていたでしょう。
長い間、民は苦しめられていました。革命を起こしたのはあなた方ではありません。民を圧していた貴族や王族、そしていつか叛旗を翻す決意をした国民です。
これは、あなただけの罪ではないのです。あなただけが償うものではないのです。
それでもなお、あなたが苦しんでいて、償いたい気持ちを持ち続けているのなら、お願いしたいことがあります。あなたはそれをもって、ぼくとたくさんの人達へ償ってください。
どうか、この国をもっともっと良くしてください。ぼくができなかった分だけ、民を幸せにしてください。飢えに苦しむ人がいないようにしてください。誰かが武器を取って、誰かを倒そうとすることがないようにしてください。
処刑台に行かなくてはならない人がいなくなるようにしてください。
それこそがあなたがしなくてはならない償いであり、責任だと思います。ぼくのことを思い出すときがあったら、その次にこのことを思い出してください。それ以上のことは、ぼくは望みません。
どうか、よろしくお願いします。あなたがどんなに自分を傷つけようと、ぼくはあなたがどれほど立派で素晴らしい人か知っています。きっとあなたならやり遂げてくれると信じています。
それでは、さようなら。あなたを出迎えた小さな子供より
首切り男は、貴人が彼に対してどんな手紙を書いたのかは知らなかった。しかし、うすうすどんな内容であるかは感づいていた。
わがままなあいつのことだ。きっと無理難題を言ったに違いない。
「あなたは、いつ出発されるのですか?」
手紙を読み、床にうずくまった山羊男が小さく言った。
「もう仕事もないからな。三日後には発てる」
「そうですか……どうか、お気をつけて。見送ることはできませんが、旅の幸運を願っています」
山羊男がゆっくり立ち上がる。呂律が回っておらず、一語発するのにも小さな呻き声が混じっている。しかし首切り男はそれを指摘せず、山羊男の後ろ姿に向かって微笑んだ。
「ああ、そうか。おまえも、達者でいることだ」
それが、首切り男と山羊男が顔を合わせた最後の日だった。
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